今回は西鶴による、こじつけ的衆道史…ムチャクチャしすぎや、あんた…。 時は神代のはじめ、世には男神しかいなかったので、国常立尊(くにとこたちのみこと)は、衆道に目覚められ、日千麿尊(ひのちまろのみこと)を寵愛なされていたそうな。 ところが、須盞烏尊(すさのおのみこと)がつい気の迷いで、稲田姫にちょっかいを出したのが運のつき。 あっちこちから、うるさい赤ん坊の泣き声が聞こえるようになるわ、口煩い女がでしゃばってくるわ、年頃になれば嫁入り道具が必要になるわと、なにかと頭痛の種が増えてしまった。 男色なら、そんな心配もないのに、今どきの人がその妙味を知らないなんて、バカだねー、ってな感じで物語は始まる。 そして、男色道の歴史とやらを、日本や中国の逸話からひも解く…いや、こじつけていく。 衛の君主は一人の美少年に命をかけ、漢の劉邦は籍孺(せきじゅ)という美少年に夢中になり、武帝は寵臣・李延年を枕の相手に定めたというのが、中国編。
では日本はというと、美男の代表とされる在原業平くん。 彼は、女流歌人・伊勢の弟、大門の中将と念友にあって、そりゃあもう、雨が降ろうが槍が降ろうが、花も嵐もふみこえて、中将のもとに通いつめること5年余り。 「風に前髪も乱れ、あちらこちらで鶏が鳴きはじめても別れを惜しみ」その都度、泣き泣き別れたという有り様で、業平はその想いを筆に託し『通台集』の一巻に書き残したほど情熱的だったとか。
それなのに、業平は、ベタ惚れだった念友を見限り、多くの女と浮き名を流すわけだけど、業平はもともと美少年好みのはず。今ごろは草葉の陰で口惜しんでいることだろう。ざまーみろってか? 根性わるっ。
さらに、かの吉田兼好さんは、人に頼まれて、たった一度、人妻への恋文を代筆しただけなのに、末の世まで浮き名を流すはめになってしまったと哀れんでいるけど、人妻ですよ、人妻。兼好さん、そりゃいけません。 よーするに、女色の道は百害あって一利なしと言いたいらしいのだ。
その上で、この巻は諸国を巡って見聞してきた、衆道の素晴らしい点を書き集めたのだけど、その物語を始めるための前振りとばかり、まず男色と女色の違いを述べている。 たとえば、 11、2歳になって早くも色気づいた娘が、自分の身なりをやたら気にするのと、同じ年頃の少年が歯をみがいている風情とでは、どちらがよいか。女郎に振られての一人寝と、痔のある歌舞伎子としめやかに語り合うのとではどうだろう…とか。 はたまた、気鬱症の女房の相手をするのと、ちょくちょく無心する若衆を持っているのとでは、どちらが困るか。 あるいは、歌舞伎若衆を呼んで遊んでいる座敷に雷が落ちるのと、女郎とろくに馴染みにならぬうちに「一緒に死んで下され」とカミソリを出されるのでは? などなど…。と、こんな調子で、延々と男色女色の比較が続く。それがアホらしくて、それなりに面白いのだけど、紙面の都合ではしょる。
結論としては、「そもそも女道と衆道を同列に置いて論ずるのは無理があろうというもの」と前置きしながら、大抵の女の心根ってぇのはねじくれているもので、それに比べたら、少年は凛として「初梅のように、えもいわれぬ匂いがするもの」…って、分かりません、先生っ。
(巻1-1)
<ひと言> このあたりは男色物を書くにあたっての、世間への牽制かしらん。言い訳がましく斜に構えてちゃいるけど、西鶴らしい皮肉や風刺が効いています。でも、もちろん内容はマユツバもの。けっして信じちゃいけないのです(笑)。 さて、次回からはいよいよ物語本編に突入。さらにクダケテ参ります。 |