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唇には微笑みをたたえ



八章
<1>  <2>  <3>

<1>

「ダリューは元気ですよ。ただちょっと療養する必要がありましてね。そのための転院です。静かで落ち着いたところですから彼も気に入ってくれるでしょう」
 そう言ってウォレン・カイブルは、ダリュー・メンドーサのネームプレートが出ているドアを示した。
 入院患者にとって、唯一の楽しみといっても過言ではない食事時間だけあって、さざめく声や、食器がぶつかる音、果ては盛大に引っ繰り返したと見られるけたたましい音が、辺りに溢れている。
 そのドアはほんの少し開いていた。軽くノックすると音もなくその隙間が広がっていった。
 窓に下りたブラインドが落ち着いた薄い翳りを作っている。ベッドの位置はティモシーの部屋と同じだった。
 半身を、上部を起こしたベッドにあずけて、青年がぐったりと座っている。乱れて、紗のように顔を隠した白っぽい金髪。パジャマの上からでも見て取れる薄い肩。頼りなく胸の辺りを押さえた華奢な腕。そして、ざんばらした髪の間から、真円に見開いた淡緑の目が一点を見つめ続けている。
 牧師の形の良い眉がすっと寄った。
「お邪魔していいですか? ダリュー」
 静かに足を踏み入れる。色素の薄い瞳がひたすら凝視するものに、視線を向ける。
 ――少年が、いた。
 壁に凭れた背中で、かろうじて崩れ落ちずに躰を支えている。躰の前に握り締めた刃渡り十センチ足らずのナイフ。茫然とした表情。
「――クレイグ…ティムです」
 牧師が呟く。
 クレイグには、自分の目に映るその光景の意味が、束の間、分からなかった。
 反射的にダリューの方に視線を投げる。
 ウォレンが、青年の着衣の胸元を大きく押しひろげた。まだしなやかさを失っていない裸体から滲み流れる血潮。なすがままのダリューは、この状況には不釣り合いな、純真な子供のような瞳で伯父を見上げる。
 一瞬ののち、霧のように煙っていた物事が、ふいにはっきりと形を現す――すなわち、そういうことだったのか、と。
 内に秘めた直情型の獣を警戒しながら、クレイグはますます表情を消していった。怒りを氷に変えるように。
ナイフに見覚えがあった。少し前まで林檎の皮を剥いていたそれだ。その迂闊さが恨めしかった。ゆっくりと伸びた牧師の手が、片方ずつ少年の手首を掴んで、そっとナイフを抜き取る。
 クレイグがその細い躰を引き寄せると、ティモシーはふらりと腕の中に飛び込んできて、ガクガク震えだした。抱き留める腕に力を込める。
 ナイフの刃に付着する血液をなんでもないことのように眺めてから、牧師はそれをハンカチに包んだ。
「大丈夫ですよ。こんなフルーツ用のナイフじゃ大した傷は付けられません。ねぇウォレンさん、そうでしょう?」
 慰めになっているのか、いないのか。冷静な所見を、ダリューの様子を見ている男の背中に告げる。
「……強めに押さえておけば止まる程度の出血ですよ。怪我をしたことでなくショックの方が強かったんでしょう。ドラッグの効果が消えてから、何時間も経っていないですからね」
「ナースコールしますか? それとも応急処置でよろしければわたしがやりますが?」
 もちろん医者を呼ぶべきだ。牧師は何を言っているんだろう。
 ティモシーを抱えたまま、肩越しに見やったクレイグの目に映ったのは、牧師と向かい合うウォレン・カイブルの冷え冷えと冴えた双眼だった。
「……いたずらに騒ぎを大きくしたくないとなれば、あなたにお願いした方がよさそうですね」
「ええ。今日中に転院出来なくなりますからね。あなたはお急ぎなんでしょう? スキャンダルをもみ消すにも、それなりの手順が必要ですからね」
「そう……手順と方法。一つ誤ると舵取りを失いかねない」
 駆引めいたやり取りは、まるでキツネとタヌキの馬鹿試合といった雰囲気である。互いの足を引っ張りながら、水面下を探り合う陰湿さが、慇懃無礼な漫才に陥るのを、一歩手前で食い止めているようなものだ。
 クレイグは苛立つ感情を持て余し、胸の内でグルグルと唸り声を上げた。一刻も早く、うっとうしいその場から離れたかった。
 腕の中のティムの震えは納まりつつある。だがこの胸くそ悪い空気に息子を晒していたくない。
「歩けるか?」
 尋ねた瞬間。ビクンッとその躰が跳ね上がった。素早くクレイグは抱き締める。その力から逃れるように、その細い喉が反り返り、全身に思いがけない力が漲った。
 刹那、か細い悲鳴を上げながら、ティモシーは目茶苦茶に暴れだした。

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<2>

「ティム? ティム……ティム…落ち着け……落ち着いて!」
 牧師が素早く、かたわらに膝をついて、床の上にティモシーの上体を押さえることに手を貸した。
「ティム…もう恐がらなくていいんです。ここにいるのはきみのお父さんですよ。この手はきみのお父さんの手ですから……ほら、恐くないでしょう?」
 落ち着いて囁き続ける。幾度も幾度も。
 やがて、ティモシーの顔から感情が剥落した。全身に張り詰めていた力が緩む。
「ぼくは ダリュー あんた じゃない……」
 繰り返し呟く少年の瞳を、牧師はじっと覗き込んだ。
「そうです…きみはティモシー・ラッセル、それでいいんですよ」
 ティモシーの視界が、深く澄んだ闇色に覆われた。
 その闇色は暖かく慈愛に満ちている。恐がることはないのだと、意識のどこか遠いところが囁いた。
 恐がることは、何もないんだ……
「ティム……忘れてしまいなさい。ダリューも…ダリューに関わることも……みんな忘れてしまいなさい。きみが受けた肉体の痛みも、心の痛みも、すべてわたしが引き受けます……だから…忘れていいんです。……呼吸を楽に……そう……目を閉じて……」
 躰がふわふわ軽くなる。深く染み込むような彼方の声。心地よい眠り……
「忘れていいんです」
 睫毛が触れそうに顔を寄せて、囁くように呟き続けた牧師は、やがてゆっくり躰を起こし、
「もう押さえている必要はありませんよ」
 どこか痛みを堪えているような固い笑みで頷いた。クレイグはぼんやりと、その横顔と動かなくなった息子の躰を見比べ、まだティムの躰を押さえている手を離す。
「眠っているだけです」
 片膝をつき、弛緩した華奢な躰を抱き起こす。腕と膝にかかるずっしりした重量感が意外だった。考えてみれば息子を抱き上げたのは遠い昔だ。
「――何をやった?」
「申し訳ありません」
「だから、何が?」
「美味しいシーンを横取りしましたから」
 明らかに牧師は話をはぐらかし、胡散臭そうにこちらを見ているウォレンに、含みをもたせた笑みを向けた。
「では、ダリューの手当てをしましょうか」
 リンフォードは極めて手際よく応急処置を施した。胸部を強めに締め付けた包帯の最後を縛りながら、
「血で汚れたシーツの言い訳までは引き受けられませんよ」
 とは、余裕の発言であったろう。
 ウォレン・カイブルの方は、いまさらながら牧師のタヌキ振りを意識してか、ますます胡乱を募らせた表情をしている。
「で…ダリューはどの程度まで回復したんです?」
「――彼の時間を十年遡った程度に」
 ウォレンが手を伸ばし、額に張りついた金髪を剥がしてやると、気持ちよさそうに淡緑の瞳が閉ざされる。
「もっとも、今はさらに五年分ほど若返ったようですけどね」
「では……あなたの目的は、図らずも達せられたことになりますね」
 さり気ない問い掛けが、ダリューに奪われていたウォレンの視線を引き摺り上げた。
「――何が言いたい?」
 ウォレンの声には、他人を跪かせてきた者独特の威圧と、それを楽しむ傲慢が混在していた。
「だってダリューにドラッグを与えたのは、あなたでしょう?」
 息詰まる緊迫に凝っていた空気が震える。
 クレイグは信じられないというように目を剥いた。
「あの家から連れ出そうとしたのも、あなたが誰かに命じたことでしょう? それで…どうなさるつもりだったんです?」  
「……牧師さんはミステリーが好きなのかな。名探偵を気取って何をするつもりかね?」          毒々しい侮蔑の表情がウォレンの口元に漂う。
「わたしはこの子の親代わりだ。父からこの子を守ってきたのは、わたしだ。この子を愛してやった。わたしがいなければ、とっくに消えているか、少しはマシな選択として、父と同じように狂気に走るか。……どちらにせよロクなことにはならなかった筈だ」
 ウォレンの整った顔が束の間、哀しそうにくもる。
「わたしはこの子を…ダリューを愛しているんだよ」
「――では…あなたの愛は、カイブル家の重さの前に屈したということですね」
 リンフォードは腕を躰の両側に垂らし、何気ないふうに佇んでいる。
 ワイヤー並みの神経の持ち主といえど、大物相手の駆け引きは緊張するのだろうか。心なしか顔色が白い。
 その片手には、ハンカチに包んだ血染めのナイフがある。そしてこの上もなく美しく微笑んでいた。  その微笑みはいつもの微笑みとまったく同じだったが、明らかに質が違っている。身を凍らせる甘い凄味が、見ている者の背筋に寒気を与える。
「それは否定しない。その名前の前には致し方のないことだ――それが兄とは相容れないところだったのだが。それで…牧師さんがどうしたいのか、今だに分からないんだが」
「ええ……あなたは分かっておいでだ。わたしごとき一介の牧師が告発しても、到底カイブル家には到達しないことを」
「ほう……それで?」
 急に牧師の口調が変わり、楽しげにすら感じられた。
「……お近付きになれて幸運でした。そのうち、エミグラントにも足を伸ばしてください。町を挙げておもてなししますので」
 信じられない思いと憤りに、クレイグは僅かに顔を伏せた。腕の中の重みと温もりを抱き締める。
「……なるほど」
 ウォレンは毒々しい侮蔑と嘲笑を浮かべ、尊大に頷く。
 そのとき、ドアをノックする固い音が、息苦しいまでの緊張を破った。
「退院の許可が下りたようだ」

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<3>

 車椅子に乗せられたダリューが、並んで歩くウォレンに無邪気な笑みを向けた。
 嬉しそうに。
 幸せそうに。
「痛ましいですね」
 後ろ姿を見送りながら、牧師はひっそりと吐息をついた。
「でもクレイグ…気づきました? 車椅子を押していた男に見覚えありませんか」
 息子の重みが肋骨を圧迫する。クレイグは内蔵を絞られるような痛みに堪えながら、薄っぺらな躰を背中に廻した。ちょっとやそっとの振動では起きそうもないくらい、ティモシーは深い眠りを貪っている。
「ウォレンの運転手だろ。足を引き摺っていたことか?」
「たぶん、あれをやったのはわたしだと思うんですよね」
 牧師が苦笑を洩らす。
「あのときは暗かったし、わたしが向かい合ったのは一瞬でしたから断言できませんけど……足を狙って射ったんです。掠めただけで逃げられちゃいましたけど。久しぶりのせいか、腕が鈍ってますね」「あのときって――」
「あなたが押し込んだ家でのことです」
「似てはいるが……俺にも断言できない」
 そう言ったあとで、ふと何かに気づいたという表情をするクレイグに、牧師が問い掛けた。
「何か?」
「運転手の右目の横が痣になっていた」
「えぇ、三日月型の」
「俺が懐中電灯を投げた跡かもしれない」
「それはお気の毒に。あの人もずいぶん痛い目にあったんですね」
 まるで怪我の原因が自分にないように、牧師はあっさりと言い放つ。まったく、いい性格をしているとしかいいようがない。
「堂々と現われるとは舐められたものだな、俺もあんたも」
「というより、自意識過剰なだけですよ。何をやっても自分は正しいと思い込んでるタイプ」
「――ダリューをあんなにしたのは、あのマッチョってことか」
「……案外、ウォレン自らかもしれませんね」
 牧師は淡く微笑んで、気がついたように、クレイグが抱き抱える少年に手を差し伸べた。       「重いでしょう、替わりますよ」
「ほっとけっ、裏切り者が!」
 その手を無視してクレイグは、怒気をあらわに牧師を睨みつける。
「子供みたいに何を拗ねているんです?」
「あの交換条件をのめって言うのか」
「大人の選択をしただけです」
「確かにカイブル家なら、またとないパトロンだろうよ。エミグラントもこれで安泰ってわけだ――ダリューの未来と引きかえにな」
「あなたがティムのことで告訴したいなら止めませんけど。……でもたぶん、ティムはもう覚えていませんよ」
 急に全身が軋みだすような気がした。リンフォードの存在がおぞましかった。
「あんたが何をしたのかは分からないが、きっとティムのためにはよかったんだろう。……神様が肩代わりしてくれたんだろう? 主のお恵みってやつか」
 明らさまな嫌味だったが、牧師はあっさり聞き流して、クレイグの背中の少年を引き剥がし、自分の背中に背負う。
「あったかい……」
 微かに呟いた。滑らかそうな首筋にかかる寝息すら愛しそうに、うっとりとした表情が浮かぶ。向ける方向を奪われたクレイグの怒りすら、少しずつ溶かしてしまうような。
「――あんたのあの力……催眠術だかマインドコントロールだか知らないが…ダリューにはできないのか?」
「できるかもしれません」
「だったら――」
 言いかけて、青年の様子がおかしいことに気づく。血を失ったままの青味を帯びた額に汗の粒が浮かんでいる。心なしか息が荒い。
「あんた、具合が悪いんじゃないか?」
「いえ……」
「ティムを返せ。俺が背負う」
「もう少し……。寒いんですよ」
「風邪か?」
 ふわり…と微笑みを返す。だがクレイグには青年が泣いているかのように思われた。

「他人の痛みを引き受けるなんて不遜なことをしたのですから、その代償を受けるのは当然なんです」
「……おい?」
 それはティムの痛みを、替わって受けている――ということだろうか。
 ――肉体の痛みも、心の痛みも、すべてわたしが引き受けます。
 そういえば、あの後から牧師の美貌に翳りが見えた。黄み帯びた象牙色の肌が、紙のように白くなった。
 そういうことなのか……?
「――ダリューは、あのままの方がいいと……思えるんですよ。彼があのままならウォレンに愛して貰えるでしょう――これでカイブルのすべてが意のままですから。禁治産者としてダリューが表舞台に出ることはないといても」
「それじゃ、飼い殺しじゃないか」
「ドラッグを打たれて、河に放りこまれるよりいいと思ったんです……少なくとも、生きることはできます」
 クレイグはしばし絶句した。それも大人の選択だというのか。
 確かにクレイグは、ダリューが憎かった。大切な者を傷つけられて、許せるわけがない。それでも、こんな結末は――やりきれない。
 横目で盗み見たリンフォードの、息子に向ける眼差しの翳りが、非難しようとする言葉を奪った。
 血の気の失せた青年の唇が、うっすらと緩む。
「……もっとも彼の深すぎる心の痛みを引き受けるほどには、わたしの覚悟が出来ていないっていう理由もあるんですけどね」
 他人ごとみたいな微笑。その美しい微笑みの裏の目に見えぬ葛藤。
 クレイグに牧師を責める資格なぞない。つらいのは――。
 ダリューの心の闇を引き受けたところで、カイブル家があるかぎり彼の未来は閉ざされたままだ。
 ダリューを見捨てた。直接手を下さなくても、ひとりの人間を殺したのと同じようなものだ。その代償として、彼はダリューの人生や罪や苦しみまでも、すべて背負ったということじゃないだろうか。
 つらいのは直接引導を渡した牧師の方だ。人を救うべき教えを受けてきた立場なのだ。つらくないわけがない。
 慎ましやかな微笑みを漂わせる秀麗な横顔が、なぜだかクレイグを、泣きたいような切ない気持ちにさせた。

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