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唇には微笑みをたたえ



エピローグ




 リンフォード牧師は忙しげに部屋の中を動き回っていた。クレイグの食事の支度をしたり、ベッドメィキングに挑戦したり、果ては「背中を流しましょうか」と、まるで世話好きな母親のようであったが、本人のやる気にも関わらず、牧師は、料理だけでなく家事にはまるっきり向かないタイプだった。
 クレイグは顔をしかめ、ものすごい勢いで煙草を吹かしながらそれを悟った。
 ハタキを持った牧師の綺麗な長い指は、埃を払いながら片っ端から物を叩き落とし、ついにはクレイグの商売道具、命から三番目くらいに大切なライカを収めた棚に襲いかかったとき、思わずクレイグは悲鳴をあげたのだった。
「頼むから! 少しじっとしててくれよ」
「なんでです?」
 牧師は振り向きざまに領収書入れの箱を引っ繰り返し、クレイグが天を仰ぐ。
「――肋骨に響くんだ……そのどっしんばったんが」
 牧師もつき合って天井を仰いだ。その柔らかそうな唇から情けなさそうな溜め息が洩れる。
「どうも苦手で……だからなるべく物を持たないようにしているんですけどね」
「ったく、パソコンや銃の腕前はかなりのものなのに、なんで日常生活はまるっきり駄目なんだ……?」
 知らずに洩れたぼやきが、撒き散らした紙片を拾い集める牧師の耳には届かなかったのは、主の恵みでもあったのだろうか。
 今はただ、静かな生活が懐かしかった。出される食べ物にドキドキしたり、ゴミバケツの中で増殖する皿の謎に悩んだり、戦々として薄氷を踏むがごとし生活から解放されたいと切に願った。
 開け放った窓から冷えた空気が流れこむ。ミシガン湖を渡ってくる風は冬の気配を漂わせ、ときおり儚げな風花を運んでくる。 ルビをふる  ねっとり纏わりつく霧の日  インディアン・サマー が、気紛な冗談だったように。
 窓を閉めるために、クレイグはハタキ攻撃から避難していたソファから腰を上げた。
「もう着いた頃か……」
 ふと、雲を淡く刷いた空を見上げ、ぼそりと呟く。
 空港でティモシーを見送ってから三時間になる。エレンとその婚約者の後ろを、のろのろくっついて歩いて行くティモシーは、やはり小柄で頼りなげに見えた。そして変わって見えないことに、クレイグは安堵したのであるが。
「また来ていい?」
 クレイグを見上げて息子は遠慮がちに言った。目の端に映ったエレンの片方の眉がすっと上がった。沈黙は雄弁に彼女の心を伝えている。
「ママがいいって言ったらな」
「じゃあ……クリスマスは?」
「――まだ予定が立ってないって言っただろ」
 薄い肩に置いた手に、クレイグはほんの少し力を込めた。
 そして大人達はぎこちない握手と挨拶を交わしたのだ――牧師の 十八番 おはこ を横取りしたかのように、慇懃によそよそしく。
 ようやく集めた領収書を箱に戻して、リンフォードがちらりと目を上げ、
「ティムですか?」 
 何気なさそうに言った。その箱を棚に収めながら、さらにさり気なく付け加える。
「ティムはあなたに似たんですね」
「――俺に?」
「気持ちを伝えるのが不器用なところ」
 牧師がしれっと追い打ちをかける。
 たっぷり一分以上の絶句ののち、クレイグはブリザード並みの視線を投げ、重々しく口を開く。
「いつまでも教会を留守にしていいのか?」
「事情は説明してありますから。怪我人を放って帰ることはできませんよ」
「心配するほどの怪我じゃないさ。安心してお引き取り願いたいね」
 僅かばかりの心の平安を求めて、クレイグはシャツの胸ポケットの煙草を探った。
「煙草はよくないですよ」
「……女房でもないのに口煩いヤツだな」
「奥さんならいいんですか?」
 どこか、何かが、微妙に噛み合わない会話だ。
 これ見よがしに煙草に火を付けるクレイグも大人げないが、心の平安には程遠い本人はそこまで頭が回らない。
「それならあなたが肺癌になる前に、縄で縛り上げて教会へ引き摺って行くべきですね。チーフスペシャルを突き付けて誓いの言葉を言わせたあとは、存分に口煩さく言って差し上げます」
 長い指が唇にくわえた煙草を横から掠め取った。茫然と見つめるクレイグに、背徳の牧師はこの上もなく魅惑的な微笑みを向ける。
「……あんたが言うと冗談に聞こえんな」
 慌てて目を反らしたが、それは残像のようにクレイグの目に焼き付いた。
 柔らかく少し掠れた低音が心地よく感じるなんて、とてつもなくヤバイのではなかろうか。
「あんたと結婚するくらいなら、モーバリーと駈け落ちするほうがよっぽど説得力がある」
 思わず喚いてしまったのは焦りと混乱ゆえであろう。
「あなたが言うと冗談に聞こえ――」
「冗談に聞けっ、冗談にっ」
 さえぎって唸る。
「気色悪いっ」
 リンフォード牧師は楽しそうに笑った。
 そして、クレイグは愕然となった。驚愕がズクリと心臓を握る。何やら熱い衝動が、下腹から込み上げてくる。それは間違えようもなく欲情の猛りで――……。
 クレイグはさり気なく牧師に背中を向けた。
 恋を意識するのは得てしてこんなことからかもしれない。
――了――
 '95.10.22

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