七章
ベッドに横たわる少年は真っすぐ天井を見つめている。 点滴のチューブに繋がれた細い腕。血の気がない唇。外傷としては一週間程度の軽傷で、「あくまで念のための入院だから、明日にでも帰れるよ…きみしだいだけど」とは、ファイン医師の診断だ。 横のパイプ椅子を逆向きに座り、背当ての上で腕を組んでいる保護者の方が、よっぽどベッドを必要しているようだと、リンフォード牧師は思った。 頭と右手に包帯を巻き、右の頬には特大サイズのバンドエイド。本当はその上にべったり湿布薬を貼られていたがあまりの情けなさに、それはすぐに剥がしてしまった。服に隠れている部分も痣だらけで満身創痍だ。 親子は、もう長い時間沈黙を守っている。 父親が林檎の皮を剥き、食べやすく分割して盛った皿を黙って差し出すと、少年は一つだけお義理のように口に運んだ。互いに注意深く、目を反らして。 少し前まで様子を見ていたモーバリーは気掛かりを残して出社していったが、案外部屋に充満する重苦しい空気に絶えかねて逃げ出したのかもしれない。 「ティムには医者が付いているんだから心配ないさ。それよりあいつの方を気をつけてほしい。さっきも警官を殴るところだったんだ」 と牧師に耳打ちして。 片隅の洗面台で、紙袋に林檎の皮と共に突っ込んであるフルーツナイフの汚れを洗い流し、振り向くと、親子は、林檎の入った皿が動きだすのを待っているように見つめていた。 牧師は静かな眼差しで親子を眺め、それを窓に転じて密やかな吐息をついた。窓から溢れる陽光は朝のそれから昼のものへと変わりつつあった。 表情から感情を消したクレイグであるが、内実では今にも噴出しそうな怒りが逆巻いていた。 息子が強姦事件の被害者である衝撃と、無神経な警官の台詞――直腸破裂でミシガン湖に浮かんでいたり、怪しげなクラブで変質者たちに足を拡げることもなく、五体満足で戻ってこれただけでもラッキーだった――で怒り心頭、怒髪天を衝く。そのうちこの躰は灼熱の炎で焼きつくされてしまうかもしれない。怒涛の怒りは無力感に直結し、クレイグの心は打ちのめされて立ち尽くしていた。 ティモシーはポリスの質問に対しても頑なな沈黙を守った。 「パパ…ごめんね」 と言ったあと、一言もそのことには触れない。忌まわしい記憶を言葉に出すことを、深部まで傷ついた心が拒否するするのだろう。 クレイグは昏い眼差しを向けた息子の髪を撫でることしかできなかった。 どんな言葉で慰められるというのだろう。狂犬に噛まれたと思えって? それでも心は、だらだら血を流し続けるのだ。 遠慮がちなノックがあって、牧師は、ぴくともしないクレイグを見てから「どうぞ」と促した。 看護婦が顔を出した。きびきびと歩み寄って、にこやかに告げる。 「ラッセルさん、ご面会の方がいらしているの。お会いになる?」 しかし背中を向けて、静かに激昂する父親の耳には届かなかった。 再び声を掛けよう口を開いたとき、父親は何かの気配を感じたようにふっと腕から顔を上げ、肩越しの視線を看護婦に向けた。 「まぁ……あなたの方も休養が必要だわね」 牧師と同じ感想を述べる。クレイグの白い視線にたじろいたのも束の間、看護婦は気丈にも、 「必要よ。それも即刻!」 と断を下す。 「気になって息子さんも休めないわよ――ねぇ、パパがいなくたって大丈夫よねぇ」 もちろん最後はティムへ向けたものである。 微かにティモシーが頷く。 看護婦は、ごらんなさいとにっこりと眉を上げた。 「面会の方はどなたですか?」と牧師。 「ラッセルさん…パパの方よ…と一緒に運ばれた患者さんの親代わりっていう人。伯父さんて言ったかしら。転院するのでご挨拶したいって言ってたわ」 「ウォレンさんでしょうね」 黒瞳がクレイグを見つめた。 「わたしもご一緒していいですか?」 「不法侵入を訴えたいだけかもしれないぜ。……あんたも巻き添いを食らうかもしれない」 微かな動作でティムを示し、一段と声を落とす。 「こっちとダリューとは別件らしいからな」 無神経な警官の顔が脳裏をよぎる。まだ毛の生えていないような子供にしか欲情しない変質者の仕業だろう――が、その見解であった。 「あなたから目を離すなと、モーバリーさんに言われてますので」 陰険にじろりと睨めつける視線もどこ吹く風と、牧師は柔らかい微笑みであっさり躱す。 看護婦がドアを引いて待っていた。クレイグはその意志に溢れた顔を見ていたが、諦めて白旗を上げた。 「ティム……」 クレイグは言葉を探して口を開きかけたが、結局は沈黙のまま、小さな頭にぽんと手を置くのが精一杯だった。 「――患者さんて……」 それまで口を噤んでいたティモシーが、唐突に言った。 「あぁ…ダリューさんだ。この二つ上の階に入院したんだよ。エミグラントで会っただろう? 彼だよ」 「転院って?」 「別の病院に入院するんだろう。気になるか?」 こくりとティモシーが頷いた。 「会えるかどうか、聞いてやるよ」 唇の端をほんの少し持ち上げて、クレイグは出口にむかった。 ティモシーの目が戸惑ったように泳ぎ、それを瞼に隠した。 「ティムくん、あたしが一緒にいてあげましょうか?」 ドアを閉じかけた手を止めて、思いついたように看護婦が尋ねる。 「……少し眠いから」 目を閉じたままでティモシーは呟いた。胸の上で握り締めた華奢な手のひらに、じっとりと汗が滲んだ。甘い林檎の匂いがふわりと鼻をくすぐった。
ウォレン・カイブルとの稀に見る慇懃無礼に、嫌味と陰険を塗したごとき挨拶に手間取ったこと。 四年前に結婚生活を解消したエレンが、婚約者を伴って現われたこと。 それからそれぞれの紹介と挨拶が再び始まったこと。 ちょうど昼食時で看護婦たちが患者の食事の管理で、てんてこまいだったこと。 諸々のすべてが、その時間の空白を作った原因だった。
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