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唇には微笑みをたたえ



五章
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 恥ずかしいほど大時代的な制服姿のドアマンが引き開けたガラス扉の向こうとこちらで、目指す人物とブチあたるというのは、間が良かったというのであろうか。
 明るいエントランスホールから接近してくる男を、ちらりと視線で示したリンフォード牧師が、
「彼がウォレン・カイブルです」
 クレイグの耳に顔を寄せて囁く。
「ここはわたしにお任せ願えますか?」
「ティモシーは俺の息子だ」
「ええ、そうですが……クレイグ、自分の顔を鏡で見てご覧なさい。その不精髭はセクシーではありますけど、今のあなたは凶器を持ったまま警察署の前をうろついてるような怪しさですよ。変質者と間違われて、彼に逃げられたら元も子もないでしょう?」
 牧師のもの柔らかい、しかし辛辣な指摘に、クレイグは不請不請頷いた。
 接近してくる男の、グレーのスーツや焦茶の靴など趣味のよい服装が、ハイソサイティーに属することをさり気なく主張している。 牧師がしなやかに歩み寄る。その気配に、ウォレンは近眼の人間がやるように目を眇めた。浮かんでいた訝しげな表情が、数秒後には薄い笑みに変る。
「エミグラントの牧師さんでしたね。この度は甥がご心配をおかけして心苦しく思っております」
 礼儀正しく手を差し出す姿は、一歩間違えば慇懃無礼にも取られかねないよそよそしさである。もっとも、牧師も負けず劣らずの馬鹿丁寧さで挨拶を返したのだから、どっちもどっち。端で見ているクレイグの方が決まり悪くなったものだが、ティモシーに繋がる手がかり一つない今、それに付き合わざるを得ない。
 ウォレン・カイブルは先を急いでいるようだった。
「これから病院に戻りたいので、失礼だが手短に願いたいが」
「お悪いのですか?」
「いや、すぐにどうとは。ただ父も病床について気が弱くなったのでしょう…身内の者を側に置きたがるのでね。今ではダリューとの痼りもようやく解けて、わたしも安心していられます」
「では、ダリューさんはご病人に付き添っているのですか」
「何事も時が解決するものです。そちらにはご迷惑をかけましたが、約束の件は遂行しますのでご容赦願います」
 鼻先でドアをぴしゃりと閉めるがごとき物言いである。
「ところでご用件は?」
 ウォレンは一刻も早くこの場から去りたいことを隠さなかったが、牧師は気にした風もなく微笑んだ。
「ダリューさんにお尋ねしたいことがありまして。病院の方に伺って宜しいですか?」
 無言で、ウォレンは牧師を見つめた。それから少し後ろにいるクレイグを無表情に一瞥し、牧師の顔に戻した。
「父も年ですから、いつ不測の事態が起こっても不思議ではありません。できればご遠慮頂きたいですね」
 とぼけているのか逃げているのか、内容は一向に進展を見せない。
 その胸ぐらを掴んでぐいぐい締め付け、ついでに悠長に構える牧師に蹴の一つもお見舞いしたい衝動と、クレイグは戦わねばならなかった。その視線には、うさぎ小屋に放たれた獣並みの迫力がある。ウォレン・カイブルが及び腰にもならず平静を保っていたのは、いっそあっぱれと言えよう。
「それで、どういうことですか? わたしが代わりに伺いますが」「息子を探している。ダリューがエミグラントからこっちに戻った日と同じ日にだ」
 ついにクレイグは鋭い眼光でウォレンを捕らえ、詰め寄った。
「ダリューは子供を連れていなかっただろうか?」
 なけなしの理性を総動員して掴み掛からなかっただけマシだったかもしれない。だがそれは、飽くまでクレイグの主観によるものであるが。
 牧師の手がクレイグの腕をやんわりと押さえた。
「――残念ながらお役に立てませんね。ダリューは誰も連れていませんでしたよ」
「しかし――」
 食い下がるクレイグの横から、牧師が素早く割り込む。牽制するかのようにすんなりした指に軽く押さえられた腕が、じんわりと痺れてくる。
「ええ…そうなのでしょう。ただ藁にも縋る思いで伺ったのです。失礼をいたしました」          「物騒な世の中ですからね…ご子息が無事に戻るとよろしいのですが」
 ウォレン・カイブルは針を含んだ言葉でさらりと応酬した。クレイグは胃がぎゅっと固くなるのを感じた。
 押さえている腕がぴくりと強ばるのを感じて、牧師は押さえる指に僅かに力が込める。
「……では急ぎますのでわたしはこれで失礼します」
「お手間を取らせました。お父さまが早く回復なさるよう、わたしもお祈りしております」
 クレイグの苛立ちを無視して、非の打ちどころない挨拶を交わす二人であった。
 足早に去っていく男のために、ドアマンが大袈裟な愛想と笑みを振る舞いながら扉を開ける。エントラスから溢れる光に、気温の低下とともに薄れゆく霧が輝く。
 幾分遅れて、クレイグは腕を押さた牧師に促されて外に出た。ウォレン・カイブルを乗せた運転手付きのメルセデスが滑るように発進していくところだった。
「離してくれ」
「……あぁ」
 それを押さえている自分の手を見て、牧師は初めて気づいたように放した。
「あんた、何をしたんだ」
「はい?」
 僅かに小首を右に傾げる。
「腕が痺れてる……」
「すいません、ツボに入りましたか。すぐ治りますよ」
「ツボ?」
「東洋医学でいう指圧のツボみたいなものです。ちゃんとポイントを押さえれば片手で相手を封じ込められますから、便利ですよ。肩凝りにも効きますしね」
 明るく答える青年を目元に険を作って睨むと、クレイグは踵を返した。駐車した車の前を通り過ぎ、すたすたと歩いていくその背中に声が飛んで、軽い足音が追ってくる。
「どちらへ行くんです?」
「裏に回る」
 そう呟いて、もの思うような獏とした視線を興味深げにこちらを見ているドアマンに注ぎ、もう一度呟いた。
「ウォレン・カイブルの反応は不自然だ。自分の目で確かめる」
「忍び込むつもりですか」
 牧師は霧の向こうの気配に耳を傾けるように、また僅かに小首を傾げた。
 一台のパトカーがサイレンを鳴らして目の前を突っ走っていった。霧を引き千切りながら瞬く間に視界から消える。街の喧騒が突然意識された。
「裏口にもガードマンがいますよ。それにこれだけのアパートですから、部屋には警報装置がついているでしょう。それなりの装備が必要だと思いませんか」
 明かりに背を向けているせいか、牧師の目は底のない暗い穴のようだった。いつも通りの輝くばかりの微笑が、やみくもなる行動はまさに愚行以外の何ものでもないという鉄則を思い出させた。
 クレイグが父親の愛情と責任の重圧を意識していたとしても、たとえ神に仕える(胡散臭い)牧師がついていたとしても、人の力は万能ではない。
 牧師に譲っていた運転席を取り返し、クレイグは見えない何者かをひき殺す代わりに、大きくハンドルを切ってその場を離れた。

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「ウォレン・カイブルが関係していると考えているんですか?」
 フラットに戻って、澱のように堆積した疲労と緊張を激しく降り注ぐシャワーでこそげ落として出てきたクレイグに、リンフォード牧師が尋ねた。 
「あんたもそうだろう」
 牧師が優雅な所作で、コーヒーをマグカップ二つに注ぎ分ける。
「勝手にキッチンを探険させてもらいました」
「あんたは初めから考えていたんだ」
「ミルクが見当らないのですが。あなたは砂糖抜きですよね」
 とんちんかんな答えに、わざと人を苛つかせているのではないかと牧師を睨んだが、そうでもないらしい。冷蔵庫から顔を上げた牧師が「ええ」と頷いた。
「誤解しないでください……ティムのこととは別です」
 牧師は静かな口調でそう言いながら、片方のマグカップをクレイグに差し出した。           「熱いですから気をつけて」
 クレイグは、そしておそらく牧師にしても、互いの腹の内を探り合っていたのであるが、分が悪いのは、ダリューがエミグラントに滞在していた事実を抱える牧師の方であろうか。
 もっとも、ソファにくつろいだ当の本人は相変わらず泰然自若として、自ら入れたコーヒーなぞ飲んでいるのだが。それに倣って一口啜ったクレイグは、思わず「うげっ」と呻いた。
「……ちょっと濃かったかな」
「かなり、な」
 まさに泥水(湯だな)のごとき代物だった。
「すみません……コーヒーはあまり入れたことがないんです」
 妙に子供っぽい仕草で恐縮してみせる様子に、つい微笑みそうになる。
「入れなおします」
「俺がやるよ……あんたも汗を流して来てくれ。その間にメシを用意しておくから」
 牧師の家事能力にはいささかならず不信を募らせるクレイグは、さっさとバスルームへ牧師を追いやるのだった。
 冷凍しておいた黒パンを解凍し、オイルサーディンとピクルスを挟んだサンドウィッチが出来上がった頃、牧師が水滴滴る黒髪をタオルで擦りながら現われた。
「バスローブ、お借りしましたよ」
 テーブルの上の食料に目をみはり、感嘆の声を上げる。
「魔法みたいですね。冷蔵庫は空っぽだったのに」
「ただパンに挟んだだけだぞ?」
「すみません。食材は口に入ればいいという生活が長いので」
 無粋なことを言いながら大したこともない「食材」に見入っている。
 上気したうなじが匂い立つように艶かしい。
 クレイグは思わず目を反らし、サンドウィッチにかぶりついた。
 ややはだけた胸元が妙に扇情的で、同じ男でありながら目のやり場に困ったのである。
「ところでウォレン・カイブルが関係しているという、あなたの根拠は?」
 サンドウィッチに手を伸ばしながら、牧師がさり気なく言った。
 クレイグは、指先を軽く顎に添えて頬杖をつき、入れなおしたコーヒーを覗く。
「アーサー・カイブルとダリューの確執は、気が弱くなった程度で修復できるようなものじゃなかった……たとえそのご仁が死を予感しても…な。存在そのものを認めようともしなかった孫だ。ダリューにも当然これまでの恨み辛みがあるだろう。それがいきなりのホームドラマだ。そんな簡単に方向転換できるかよ。……それにダリューが付き添っているとはウォレン・カイブルは明言しなかった」
「えぇ、不自然ですね」
 言って、牧師は口元に笑みを掃き、サンドウィッチを齧った。
「で…あんたは何を握ってる?」
「何をって?」
 聞き返した声には格別構えたところも、空とぼけた様子もない。だがその演技をクレイグはすっきり無視した。
「エミグラントの内部事情には言及しない。……ティムの問題には関係ないからな。そこまで譲歩したんだから白状しろよ」
「――あなたが知ってのとおりですよ。……アーサー・カイブルはダリューを認めたくなかったんじゃなくて、抹消したかったんです。社会的に抹殺するだけでは生温い。存在そのものがあってはならいものだった。信じがたいことですが……死そのものを望んでいた。……もちろん自分の手は汚さず、自分の知らないところで消えてくれることをね」
 唖然としているクレイグを置き去りにして、牧師がコーヒーを一口飲んだ。
「すでに神は去られた…か。あんたのマスターは相当なくそったれ野郎らしいな」
「えぇ…しばしば役たたずな卑怯者であったりもしますよ」
「それがあんたの教義か?」
「少なくとも今日の糧を得るために教会に来ないからといって、その信仰を疑うようなことはしたくありません。信仰により心の平安を願う方は数多くおられますが、まず食べられて生きていけることが基本ですから」
 妙に老成した雰囲気を漂わせて、恬淡と他人ごとのように牧師が言った。
「ウォレン・カイブルがその目眩ましの役をやっていたのだと思います。彼がいなければダリューはとっくに消されていたでしょう。……ウォレンからダリューの不利になるような発言を引き出すのは難しいかもしれなせん」
「ではあとは実力行使のみだ」
 言い捨ててクレイグは、リビングの壁の一面を占める収納家具の前に屈み込む。
「そういえば、あなたの部屋にはご自分の作品を置いていないんですね」
 能天気に牧師が尋ねた。
「――凄惨なシーンを前に寛げるほど、人間が出来てないんでな」
 クレイグは工具箱の中から押し込みに使えそうな道具を物色した。装備は大袈裟でないほうがいい。ポケットに納まる程度の方がベストだ。
 こういう方面に長けたプロフェッショナルのアドバイスが欲しかったが、あいにく泥棒や強盗や盗品故買業者の名は電話帳で調べることができないから、自分で考慮せねばならなかった。だが十年前位の時代遅れのセンサーと電話回線と直結した警報システムならともかく(電話線を切ればいい筈だ)、パルス信号システムや埋没電線使用のものなら、正直なところお手上げだ。できればティモシーを確認する前にポリスと向かい合うのは御免被りたいものだが。
「警察にはどうします?」
「何も証明できないのでは、動きようがないだろう――まして相手は名士ってやつだ」
「そうですね」
「あんたは適当に休んでくれ」
 最小限とおぼしき装備を整えて振り向く。途端にクレイグは固まってしまった。
「厭ですよ」
「――……あんた……何やっているんだ?」
 素早く着替えを済ませた牧師は、コットンパンツの右裾をたくし上げ、足首の上に巻き付けた革のホルスターに、今まさにチーフスペシャルを差し込もうというところであった。
 信じがたい光景にクレイグは目眩を覚える。
「……牧師がそんなもん持ってるのか?」
「――えーと…まぁお守り代わりです。……わたしがただ一人愛した女性の形見なんです……母ですけどね」
 と、裾を整えてそれをクレイグの目から隠した。
「おふくろさんの…?」
 物騒な形見を残す母親もあったものだ。
「残念ながら早くに亡くなりましたが。もちろん分別がつく年令になるまでは、育ててくださった神父に取り上げられていました。……捨てられてしまったのだろうと思っていたんですけど、母は文字通りこれしか残さなかったので、彼も捨てるに忍びなかったんでしょう」
 まるで他人ごとのようにさらりと言ってから、牧師はクスクスと笑い声を洩らした。            「ありがちな話でしょう?」
「作り話か……?!」
 リンフォード牧師は肯定も否定もしなかった。まだクスクス笑っている。
「――あんた、完全に職業選択を誤ってるぜ」
 だが笑っていない牧師の目は、クレイグのGOサインを待っていた。



 ウォレン・カイブルの住む高級アパートに着いたとき、人の家を訪問するにはやや躊躇う時間だった。そのまま車を走らせて地下駐車場への入り口を確かめ、少し先でブレーキを踏む。まだほとんどの窓が明るくさざめいていている中で、ぽっかりと穴が開いたように真っ暗な窓が幾つかあった。
「最上階の左端の部屋です」
 牧師が示した場所は闇に沈んでいる。
 クレイグは重苦しい予感に捉われた。もしダリューが在室していれば照明くらい点けるのではないだろうか。それとも、慎重にカーテンやブラインドで遮光しているのか。
 その不安を汲んだように、
「念のため、在宅かどうか確認してきます。しばらく待っていてください」                    牧師がしなやかに降り立つ。
 すたすたとドアマンのことろまで歩いていき、天使もかくやという極上の微笑みを浮かべて話しかけた。
(たらしのテクニックは抜群だな)
 街に立てば、一財産築くのも時間の問題だろう。
 ふと脳裏をよぎった、自分の想像のあまりの突飛さと下世話さに嫌気がさして、クレイグは髪を掻きむしってハンドルに額を打ちすえた。
 言葉を交わしていたドアマンが何事か頷き、扉を大きく引いた。牧師はにっこりと軽く会釈を返して中に入っていく。ほどなくして出て来たが、受付けのガードマンにも振る舞ってきたらしい微笑みはすぐに消えた。その白皙になんとも言い難い憂いが刷かれる。
「わたし達がここを引き上げて一時間後にウォレンは戻ってます。そのあとガレージから車が出ていきましたが、ウォレンや他の人間が同乗していたかは気づかなかったそうです」
「――完璧に近い警備システムと完全なるプライバシーってやつか」
 猛る感情を隠したクレイグの声は表情を消している。
 アーモンドシェイプの綺麗な黒瞳が長い睫毛の影を落とし、腹蔵なくクレイグを見ていた。
「もうここには――」
「ああ……いないだろう」

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