そのうぬぼれ屋で根性曲がりのタヌキが運転する車が、眠りこけるクレイグを運んで行こうとする高級アパートの周囲にも、白い霧が流れていた。 広い空間を占めるのはたっぷりしたベッドと、机と椅子の読書用のセットだけ。無駄な装飾を省いてビジネスホテル並みに無個性な部屋は、機能美だけを求めるウォレンらしい好みでもあった。 唯一彩りを与えるのは、壁面を大きく切り取った一枚ガラスの窓から見えるシカゴの街並だけだったが、今は霧の中に沈んでいる。白濁した空気を瞬きながら切り裂くのは車のライトだ。 高層に位置するおかげで、窓から見る霧は下界よりよほど薄い。緩やかに立ち上る淡い真珠色の煙のようなそれはどこか神秘的ですらあったが、ティモシーの目が今、何を映しているのかは、ダリューには分からなかった。
少年は自分の子供時代を彷彿させた。 深く暗い樹海で立ちすくんでいる子供―― 牧師館の長い廊下の奥のドアが、小さく、いかにも辺りをはばかるようにノックされたときは、心臓を鷲掴みにされた気分だった。 そこにティモシーが途方に暮れた様子で立っていたのも驚きだった。 それでもダリューが何となく納得して、少年を迎え入れのは、別れ際に向けた少年の物問いたげな眼差しのせいかもしれない。 空港でふと生じた出来心、ほんの思い付きの行動だと、ティモシーは白状した。飛行機に搭乗するのを何時間か遅らせるつもりではあるが、家出するつもりなどさらさらないし、自棄を起こしたわけでもないとつけ加えて。 ちょっとダリューに聞いてみたかったのだ。二人の父親ができるのは「ラッキー」と歓迎すべきか、小難しく拗ねてみるべきか。 面白いことにママはビクビクと腫物に触るようだし、恋人のデニス(じきにパパになるわけだけど)ときたら、生まれて初めて子供を見るみたいだ。もしかしたら自分が、血に飢えた怪物か、伝染病患者じゃないかと、思わず鏡を覗きたくなる。どうやら『物分かりの良い孝行息子』ではなく『思春期で難しい年頃の少年』が求められる役どころらしいのだ。 ティモシーとしては、ちゃんと食べさせてくれて、こざっぱりした衣類があって、それなりの教育をつけてくれて――ようするに今の生活に支障をきたさなければ構わなかった。大人の身勝手にはもう慣れていたし、子供の言い分が通らないことが普通だし、すっかり諦めているから。いまさらどうでもいいというのが本音だ。 だから、困惑した。 だから、悲劇のてんこ盛り経験者のダリューと話してみたかったのだ。とっつきにくい父親には結局話せなかったし、相談向きの相手ではないから。 義務を尽くそうとするだけの父。 新しい人生を歩きだした母。 僕はどこにいるんだろう――賢いだけに、ティモシーは自分の立場を完全に理解していた。 ぽそりぽそりと話す少年の身の置き所のない切なさが、哀れな自分の子供時代を呼び覚ました。
「子供には保護してあげる愛が必要なのに、なぜ大人には分からないんだろうね」 「そうなの? でも僕はもうそんなに子供じゃないよ」 「そうかもしれないね」 まるっきり子供にしか見えない少年に、ダリューは頷いて見せた。信じられないというような表情で、ティモシーは片方の眉をすっと上げた。 (あぁ、そうか) 自分と同じじゃないか。権威と威厳だけに慣らされた反応だ。命令と小言だけ。選択するチャンスを与えられたことのない――だから認められると不安になる。
(おまえが望んだのだ) 夢魔の囁く声が沸き立つ。 (おまえがやらせるのだ)
――え……? ばかばかしい。気のせいに決まっているじゃないか。あの声が聞こえるなんて間違っている。間違っているとも。ダリュー・メンドーサは目を開けたまま夢を見るほど器用じゃない。今彼は目覚めていて、哀れな子供の話を聞いているのだ――まるでセラピストのように。 ティモシーが急にそわそわと時間を気に掛けた。 「僕、もう行かなくちゃ。ハイウェイまで出てタクシーを捜さないと……」 「ここに来たことを、内緒のまま帰るつもりなんだね?」 「……だって理由を聞かれても…答えられないじゃない」
(おまえが望んだ) (おまえが――)
頭を一振りして追いすがる声に耳を塞ぎ、ダリューはにっこり笑った。 「きみのささやかなる冒険に僕も参加させてくれる?」 少年が、物見高い人目を避けて、町のかなり手前でタクシーを捨てたことはラッキーだった。 優しそうな顔に似合わず強かで、どこか胡散臭い牧師が、告解を受けるために教会に出ていることも幸いした。 ついでに、あのパーカー氏が趣味で作った車がごろごろ鎮座するガレージの場所を知っている!
「こういうのも家出っていうのかな……それとも、僕、誘拐されたの?」 ティモシーがひっそり呟いた。 「なぜ?」 ダリューはいかにも不本意という表情で振り向いた。 窓の外に立ちこめる白い霧が部屋に薄暮を落とし、ベッドの端にちょこんと座っている少年は朧な影のようだ。 「なぜ?」 再び少年に問い掛ける。 少年は窓に向けた視線を足元に落とし、微かに頭を振った。怯えているかのように。 しかしそんな筈はない。少年の頃、暗がりで怯えていたのは自分だ。 全身を這い回るあいつの目が恐かった。 全身に注ぎ込まれるあいつの声が恐かった。 たやすく屈伏させられる自分が惨めで情けなかったが、怒りも屈辱も、恐怖の前には容易くひれ伏してしまった。
(おまえが望んでいた) そうなのだろうか。本当にそうなのだろうか。 (ボクガ望ンデイタノダロウカ) 少年だった彼は一生懸命答えを探った。
朧な影の肩が小さく震えている。寒いのか? 部屋はエアコンは快適な温度に設定してある筈だ。 泣いている? いや…… 泣いていたのは彼の方だ。 (おまえはノリスと…父親と同じだ。いつかわたしを裏切るだろう) (わたしは二度と裏切りを許さないよ) あいつは何を言っていたんだろう。 なぜ、彼は泣いていたんだろう。 反抗するより先に諦めを覚えてしまった彼。 一瞬、ダリューは外界を流れる白濁した霧に呑み込まれたかと思ったが、周囲にあるのは見慣れた光景である。 さり気なく高価な家具が散らばるそこは、かつて父が過ごし、やがて両親を失ったダリューが譲り受けた部屋だった。そして、その部屋にあるのは闇色に閉ざされた思い出だけだ。二度と戻らないつもりだったのに、なぜここにいるんだろう――? 煙るように白い霧に包まれた少年がいる。 細いうなじからなだらかに続く薄い肩のライン。何かの気配に怯えたように振り向いた彼は、少年の日のダリューだ。 深い森の中で、未だ迷い続けるのは―― 「ダリューさん?」 「彼」のせいだ。 思い通りに生きられなかった原点にいるのが、「彼」だ。 ダリューの淡緑の虹彩が屈辱と反抗に強く光った。 彼をねじ伏せ、征服することが、惨めで情けない子供時代との決別だ。 「どうしたの? なんだか、変――」 長い指が痛いほどティモシーの肩に食い込む。ベッドに放り投げられ、瞬く間に衣類が剥がされる。 魅入られたようにティモシーはなすがままにされた。自分の身に何が起こっているのか理解できない。恐怖すら分らない。混乱はすべての感情を凍てつかせていた。 ダリューが後から抱くようにしてしゃがみ込み、狼狽するティモシーの下肢を開く。 「ダリューさ……!」
惨めで情けない「彼」は自分が望む自分の姿ではない。 壊してやる……! そんな「彼」なんて粉々に壊すのだ。今度こそ、完璧に! ダリューの唇が
冥
い笑みをはいた。
俯せられ、押しあてられたものの熱さにようやく正気づいたティモシーは、慌てて這いずり逃れようとしたが、腰を押さえるダリューの腕がそれを許さなかった。 「……やめて下さい……やだ……やっ……」 すっぽりと押さえ込まれた大人の体格には、抗っても弱々しい仕草にしかならない。拡げさせられた脚の剥き出しの内腿を掴んでいるその指先が、痛いほど熱かった。 征服の楔を、ティモシーは全身の感覚で鮮明に感じていた。その内深く、残酷なまでに時間をかけてそれは打ち込まれた。 なぜこんな目に合うのだろう。混乱の中でティモシーは惨い苦痛に全身をきしませながら喘いだ。 変わってしまう――そう思った。 二度と以前の自分には戻れない…… ティモシーは絶望の淵で意識を手放した。
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