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唇には微笑みをたたえ



四章
<1>  <2> <3>

<1>

 クレイグはエミグラントの入り口で車を停め、つい先日訪れた時と何一つ変わりのない風景を眺め渡した。
 濃い晩秋の霧が流れる町並みはどこかよそよそしい。この季節のシカゴで珍しくはないが、湿気といやな暗さ、そしてべっとり纏いつくような生暖かさの入り交じった天気である。
 降るかもしれないし、降らないかもしれない。空も思い倦んでいた。

 漂う霧がおどろおどろしく、幽霊の一匹や二匹と(?)すれ違っても見過ごしそうな緩い傾斜の石畳の道をたどり、しだいしだいに細い通りに入っていった。ときおり、姿の見えぬテレビから銃声や音楽が流れ、ときどきは人の話す声が聞こえた。いつもなら、まだ電気をともすには早い時間だが、幾つかの窓からは明かりが漏れている。
 角を曲がると、世にも珍しいアパートに間借りする牧師館の裏手に出た。花の季節なら素晴らしい庭の役目を果たすのだろうが、休眠体制にある今は寒々しいばかりの裏庭だった。
 柵を越えて踏みしめた土は湿って、ところどころぬかるんだ。耳を澄ましても何も聞こえない。
 静寂のの霧の中、しばらく佇んでいた全身はしっとり湿気を帯びて、クレイグはふいに寒気を感じた。
「中にお入りなさい、クレイグ」
 振り向くと、リンフォードが立っていた。
「ドラキュラのようですよ。上の階のご婦人が心臓マヒを起こす前に、悪しき亡霊は消えてもらわないと困ります」
 クレイグは上方の窓にぼんやり浮かぶ人の顔を認め、悪しき亡霊ではないと保障するために軽く会釈してから、促す牧師の後に続いた。
 こうしてクレイグは再び牧師館に足を踏み入れた。シカゴでティモシーの足跡が唯一残っている場所だった。

 家出とも誘拐ともつかぬまま、ティモシーが失踪して丸二日が経過している。
 モーバリーはその人脈とコネを使ってティモシーの捜索に携わってくれているが、子供の失踪事件なぞ珍しくもない不幸な国である。市警察が捜索願いに真面目に取り組んだとしても、その努力が実を結ぶのはほんの一握りというのが現実だったし、ましてや武装強盗から殺人、麻薬、売春、ありとあらゆる犯罪が容赦なく発生するのだ。
 多忙を極める市警察に、期待する方が違っている――評するのは簡単だった。当事者になるまでは。
 ティモシーの失踪は、クレイグの過失であった。たとえ事故や犯罪ゆえの不可抗力だとしても、言い逃れようもなく、絶望的なまでにクレイグのミスだ。それで自分を哀れむつもりはない。すべて父親になりきれなかった腑甲斐なさが生み出した結果なのだ。
 コトリと音がして、湯気の立っているティーカップがテーブル越しに押し出されたが、クレイグの目には映らなかった。
「――いつだったか……あんたに聞かれたことがあったな。なぜ人が傷つく様を写真に撮るのかと。覚えているか?」
「……エルサルバドルで…解放軍が壊滅状況に追い込まれたときですね。わたしは、あなたに腹を立てていたんです。手当てを必要とする大勢の人を前にフラッシュをたき続けるあなたに。世界は真実を知るべきだ――そして写真は凄惨な現実をありのままに映し出す――あなたはそう言いました」
 そう。腹を立てながら牧師は淡く微笑んでいた。そっちの方がよほど不気味だったと思い出す。
「歴史学者みたいな台詞だったな。安っぽいヒューマニズムさ」
 クレイグは昏い笑いに唇を歪めた。
「建て前ってやつさ。本音言えば、俺は単に悲惨な情景が好きなのさ――ファインダーを覗くとき、俺はドキドキする。ぱっくり割れた朱色の肉が流す血の色や、喚きながら流す涙や、くったり動かない躰の恨めしげに見開いた目玉……ライカのシャッターを切るときはもう夢中さ」
 牧師は小首を傾げて伏し目がちな視線をカップに落とし、沈黙を守った。
「俺は疑似体験している……銃口を向ける奴らの鼓動と重ねて。つまりは……そういうことなんだ。……俺は父親には向いていない」
 腹から命を産み出す女は、それを抱えている間に自然と母親になっていくが、男は違う。出生証明書に父親として名前が記される単純さと、それを自覚し、意識するのとはまるっきり別物だ。
 クレイグが持つ父親像は暴力と、親であることを振りかざす薄っぺらな権威の押しつけでしかなかった。そういう子供時代を過ごしてきた。
 自分の中に流れる衝動的な暴力。クレイグはそれを恐れた。だから寡黙になった。だから徹底的に自制した。
――そして家族との距離はどんどん遠くなっていった……。
「分かります」
 思いがけず同意を示した牧師を、クレイグは茫漠と見返した。穏やかな微笑みがあった。
「あなたの言いたいことが、わたしにはほぼ完全に理解できるんです……残念なことに」
 全身に染み込むような優しい声だった。
 夢から醒めたように、クレイグはいつのまにか自分のウィークポイントをぶちまけてしまったことに気づいた。
 安っぽいタブロイド誌に体験告白を売り込んでいるようではないか。常に用心深く堅い殻の深奥に隠していたことを。自分は大馬鹿者だ。
「温かいうちにお飲みなさい」
 気まずさを隠して、言われるままにクレイグは一口飲んで、眉をしかめた。
「なんだ、こりゃ」
「砂糖入りのスパイス・ティーです」
 リンフォード牧師がすまして答える。
「俺が甘いの苦手なの知ってるだろ」
「あなたの胃のためです。酷く疲れていますね、あまり寝ていないでしょう? 食事はちゃんと取りましたか?」
 クレイグが口ごもると、牧師は溜め息をついた。
「何か作りましょう」
「いや……」
 浮かしかけた腰をもう一度落ち着かせた牧師は、疲れて油の浮いた男がしかめっ面でカップの中身を飲み干すのを見守った。
「ではあなたは、わたしのオムレツを食べにいらした訳ではないのでしょう?」
 クレイグは顔を背け、立ち上がった。
「ティモシーがお邪魔していないかと思ったもので」
 辞去を告げる言葉は呟きのようになってしまった。思いつくかぎりを片っ端から当たったクレイグには、途方に暮れることしか残っていない。
「クレイグ」
「あぁ?」
「車はこの間のところですね? 先に車で待っていて頂けませんか。すぐに追い掛けますから」
 クレイグはお座成りに頷いた。
 外は相変わらず霧が流れ、空気は息苦しいほど温かかった。
 運転席に乗り込み、軽く目を閉じていると、待つ程もなく窓がコツコツ叩かれた。
 軽く息を弾ませた青年は片方の肩に、少し疲れたディパックを引っ掛けていた。
「お待たせしました。乗せて頂いても構いませんか?」
「どうぞ」
「よろしければ運転を替わりましょう。あなたの目、真っ赤ですよ」
 穏やかな声が半ば強引にクレイグを助手席に追いやる。ぽんと、ディパックを後部座席に投げてから、青年は車を発進させた。
「何か、用事でも?」
 ポケットの煙草の箱を探りながらクレイグはお義理で尋ねた。
「ええ、ティムを捜しに」
「しかし――」
「ちょっと心当たりがあるんです」
 空っぽの箱に小さく舌打ちして、握り潰そうとした手の動きが止まる。あんぐりと、クレイグの口があいたのは言うまでもない。
 困惑の態で、臈長けたその横顔を見つめること、たっぷり三十秒。
 そういうことは勿体ぶらないでさっさと言いやがれっ!
 怒鳴りつけるところを押さえたのは、単に二日間の徹夜とろくに食事を摂っていないがためのエネルギー不足だ(ハンドルを預けていることも少しは考慮したが)。
「……教えてもらえればこちらで当たるが? 牧師さんの手を煩わせることじゃない」
「レスターと呼んで下さいませんか。あなたに牧師さんと呼ばれるたびにむず痒くなるんですよ」
「教会の方は? あんたがいないと困るんじゃないのか」
「先ほど連絡をしておきましたから」
「……ダリューだな」
「ええ、まぁ……ダリューの行方は掴めたので心配はしないですみましたが、ティムも一緒かもしれません。あの二人、妙に気が合っていたようでしょう? こちらとしても放っては置けませんので」
「カイブル一族だからか」
「――ご存じでしたか」
 背筋をぴんと伸ばした美しい姿勢でハンドルを握る牧師は前方に視線を向けたまま、なんとも印象的な、清冽な笑みを浮かべた。
「あんたを、うぬぼれ屋で根性曲がりの黄色いタヌキと指摘したヤツは?」
「わたしのキャッチコピーみたいなものです」
「砂漠の行き倒れに水を見せびらかすサディストは?」
「とくに新鮮味はありませんね」
 リンフォード牧師は屈託なく朗らかに答えた。
「つくづく可愛げのない男だな」
 クレイグの口元に苦笑が滲む。
「で…どこに行くんだ?」
「まずウォレン・カイブルのところへ。この霧ではかなり渋滞しそうですから、その間に少しでも眠りなさい」
「俺に命令するな」
「車を運転するの、久しぶりなんです。好きなんですけど、なぜか皆さんに反対されまして」
 呑気な美貌がぬけぬけと脅迫する。ついでにぐいっとブレーキを踏むや、すざましい摩擦音をたてて右折した。窓ガラスに映る乳白色の霧が渦巻き、蹴散らされ、後方に飛んでいく。
「さすがにパーカーさんがメンテナンスしただけありますね。走りが軽いですよ」
「この、サド野郎っ」
 クレイグが押し殺した声で吐き捨てた。絶対眠れるわけないだろうがっ!
 だが、クレイグは瞬く間に眠りに落ちていたのである。

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<2>
 そのうぬぼれ屋で根性曲がりのタヌキが運転する車が、眠りこけるクレイグを運んで行こうとする高級アパートの周囲にも、白い霧が流れていた。
 広い空間を占めるのはたっぷりしたベッドと、机と椅子の読書用のセットだけ。無駄な装飾を省いてビジネスホテル並みに無個性な部屋は、機能美だけを求めるウォレンらしい好みでもあった。
 唯一彩りを与えるのは、壁面を大きく切り取った一枚ガラスの窓から見えるシカゴの街並だけだったが、今は霧の中に沈んでいる。白濁した空気を瞬きながら切り裂くのは車のライトだ。
 高層に位置するおかげで、窓から見る霧は下界よりよほど薄い。緩やかに立ち上る淡い真珠色の煙のようなそれはどこか神秘的ですらあったが、ティモシーの目が今、何を映しているのかは、ダリューには分からなかった。


 少年は自分の子供時代を彷彿させた。
 深く暗い樹海で立ちすくんでいる子供――
 牧師館の長い廊下の奥のドアが、小さく、いかにも辺りをはばかるようにノックされたときは、心臓を鷲掴みにされた気分だった。 そこにティモシーが途方に暮れた様子で立っていたのも驚きだった。
 それでもダリューが何となく納得して、少年を迎え入れのは、別れ際に向けた少年の物問いたげな眼差しのせいかもしれない。
 空港でふと生じた出来心、ほんの思い付きの行動だと、ティモシーは白状した。飛行機に搭乗するのを何時間か遅らせるつもりではあるが、家出するつもりなどさらさらないし、自棄を起こしたわけでもないとつけ加えて。
 ちょっとダリューに聞いてみたかったのだ。二人の父親ができるのは「ラッキー」と歓迎すべきか、小難しく拗ねてみるべきか。
 面白いことにママはビクビクと腫物に触るようだし、恋人のデニス(じきにパパになるわけだけど)ときたら、生まれて初めて子供を見るみたいだ。もしかしたら自分が、血に飢えた怪物か、伝染病患者じゃないかと、思わず鏡を覗きたくなる。どうやら『物分かりの良い孝行息子』ではなく『思春期で難しい年頃の少年』が求められる役どころらしいのだ。
 ティモシーとしては、ちゃんと食べさせてくれて、こざっぱりした衣類があって、それなりの教育をつけてくれて――ようするに今の生活に支障をきたさなければ構わなかった。大人の身勝手にはもう慣れていたし、子供の言い分が通らないことが普通だし、すっかり諦めているから。いまさらどうでもいいというのが本音だ。
 だから、困惑した。
 だから、悲劇のてんこ盛り経験者のダリューと話してみたかったのだ。とっつきにくい父親には結局話せなかったし、相談向きの相手ではないから。
 義務を尽くそうとするだけの父。
 新しい人生を歩きだした母。
 僕はどこにいるんだろう――賢いだけに、ティモシーは自分の立場を完全に理解していた。
 ぽそりぽそりと話す少年の身の置き所のない切なさが、哀れな自分の子供時代を呼び覚ました。

「子供には保護してあげる愛が必要なのに、なぜ大人には分からないんだろうね」
「そうなの? でも僕はもうそんなに子供じゃないよ」
「そうかもしれないね」
 まるっきり子供にしか見えない少年に、ダリューは頷いて見せた。信じられないというような表情で、ティモシーは片方の眉をすっと上げた。
(あぁ、そうか)
 自分と同じじゃないか。権威と威厳だけに慣らされた反応だ。命令と小言だけ。選択するチャンスを与えられたことのない――だから認められると不安になる。

(おまえが望んだのだ)
 夢魔の囁く声が沸き立つ。
(おまえがやらせるのだ)

 ――え……?
 ばかばかしい。気のせいに決まっているじゃないか。あの声が聞こえるなんて間違っている。間違っているとも。ダリュー・メンドーサは目を開けたまま夢を見るほど器用じゃない。今彼は目覚めていて、哀れな子供の話を聞いているのだ――まるでセラピストのように。
 ティモシーが急にそわそわと時間を気に掛けた。
「僕、もう行かなくちゃ。ハイウェイまで出てタクシーを捜さないと……」
「ここに来たことを、内緒のまま帰るつもりなんだね?」
「……だって理由を聞かれても…答えられないじゃない」

(おまえが望んだ)
(おまえが――)

 頭を一振りして追いすがる声に耳を塞ぎ、ダリューはにっこり笑った。
「きみのささやかなる冒険に僕も参加させてくれる?」
 少年が、物見高い人目を避けて、町のかなり手前でタクシーを捨てたことはラッキーだった。
 優しそうな顔に似合わず強かで、どこか胡散臭い牧師が、告解を受けるために教会に出ていることも幸いした。
 ついでに、あのパーカー氏が趣味で作った車がごろごろ鎮座するガレージの場所を知っている!


「こういうのも家出っていうのかな……それとも、僕、誘拐されたの?」
 ティモシーがひっそり呟いた。
「なぜ?」
 ダリューはいかにも不本意という表情で振り向いた。
 窓の外に立ちこめる白い霧が部屋に薄暮を落とし、ベッドの端にちょこんと座っている少年は朧な影のようだ。
「なぜ?」
 再び少年に問い掛ける。
 少年は窓に向けた視線を足元に落とし、微かに頭を振った。怯えているかのように。
 しかしそんな筈はない。少年の頃、暗がりで怯えていたのは自分だ。
 全身を這い回るあいつの目が恐かった。
 全身に注ぎ込まれるあいつの声が恐かった。
 たやすく屈伏させられる自分が惨めで情けなかったが、怒りも屈辱も、恐怖の前には容易くひれ伏してしまった。

(おまえが望んでいた)
 そうなのだろうか。本当にそうなのだろうか。
(ボクガ望ンデイタノダロウカ)
 少年だった彼は一生懸命答えを探った。

 朧な影の肩が小さく震えている。寒いのか?
 部屋はエアコンは快適な温度に設定してある筈だ。
 泣いている?
 いや……
 泣いていたのは彼の方だ。
(おまえはノリスと…父親と同じだ。いつかわたしを裏切るだろう)
(わたしは二度と裏切りを許さないよ)
 あいつは何を言っていたんだろう。
 なぜ、彼は泣いていたんだろう。
 反抗するより先に諦めを覚えてしまった彼。
 一瞬、ダリューは外界を流れる白濁した霧に呑み込まれたかと思ったが、周囲にあるのは見慣れた光景である。
 さり気なく高価な家具が散らばるそこは、かつて父が過ごし、やがて両親を失ったダリューが譲り受けた部屋だった。そして、その部屋にあるのは闇色に閉ざされた思い出だけだ。二度と戻らないつもりだったのに、なぜここにいるんだろう――?
 煙るように白い霧に包まれた少年がいる。
 細いうなじからなだらかに続く薄い肩のライン。何かの気配に怯えたように振り向いた彼は、少年の日のダリューだ。
 深い森の中で、未だ迷い続けるのは――
「ダリューさん?」
 「彼」のせいだ。
 思い通りに生きられなかった原点にいるのが、「彼」だ。
 ダリューの淡緑の虹彩が屈辱と反抗に強く光った。
 彼をねじ伏せ、征服することが、惨めで情けない子供時代との決別だ。
「どうしたの? なんだか、変――」
 長い指が痛いほどティモシーの肩に食い込む。ベッドに放り投げられ、瞬く間に衣類が剥がされる。 魅入られたようにティモシーはなすがままにされた。自分の身に何が起こっているのか理解できない。恐怖すら分らない。混乱はすべての感情を凍てつかせていた。
 ダリューが後から抱くようにしてしゃがみ込み、狼狽するティモシーの下肢を開く。
「ダリューさ……!」

 惨めで情けない「彼」は自分が望む自分の姿ではない。
 壊してやる……!
 そんな「彼」なんて粉々に壊すのだ。今度こそ、完璧に!
 ダリューの唇が  冥   くら い笑みをはいた。

 俯せられ、押しあてられたものの熱さにようやく正気づいたティモシーは、慌てて這いずり逃れようとしたが、腰を押さえるダリューの腕がそれを許さなかった。
「……やめて下さい……やだ……やっ……」
 すっぽりと押さえ込まれた大人の体格には、抗っても弱々しい仕草にしかならない。拡げさせられた脚の剥き出しの内腿を掴んでいるその指先が、痛いほど熱かった。
 征服の楔を、ティモシーは全身の感覚で鮮明に感じていた。その内深く、残酷なまでに時間をかけてそれは打ち込まれた。
 なぜこんな目に合うのだろう。混乱の中でティモシーは惨い苦痛に全身をきしませながら喘いだ。
 変わってしまう――そう思った。
 二度と以前の自分には戻れない……
 ティモシーは絶望の淵で意識を手放した。

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<3>
「ダリュー……なんてことを……」
 つめていた病院から戻ってきたウォレンは、二日前に突然転がり込んできた二人の姿を求めて客用寝室のドアを開け、思いがけぬ光景に立ちすくんだ。
 しばし茫然自失に陥ったものの、カイブル一族の実務面を仕切っているというだけあって、この堂々たる中年男は立直るのも素早い。
 僅かに白髪混じりになってはいたが、その焦茶色の髪はまだ濃く、整った彫りの深い顔立ちに疲労の色が滲んでいた。
 床に脱ぎ散らかした衣類や足元に乱暴にはねのけられた毛布、ベッドの上の盛り上がりに、ウォレンはやや充血した目を忙しく走らせる。
 広いベッドの端で、ワイシャツ一枚だけをまとった青年は猫のように丸くなって眠っていた。その隣には一回り小さな裸体が俯せに打ち捨てられている。
 両脚を大きく開いたままで凌辱の跡を残した少年は、気を失ったままに眠りに落ちた様子だった。苦しげに眉を顰めているが呼吸は規則正しい。それだけを見取ってから、ウォレンは青年に手を伸ばした。
「ダリュー、起きなさい」
 その耳に囁きながら肩を揺するとやがて淡緑の目が開いた。焦点の定まらない茫洋とした眼差しがさまよう。すぐ近くにたたずむ男を捉えると、伸び一つしていぶかしげな表情を作り、ややあって微笑みを浮かべた。
「ウォレン……」
 待ち望んでいたかのように差し伸べてくる腕が、男の首に回される。ウォレンはその額に唇を押しあてた。
「シャワーを浴びといで。躰をしゃんとさせて」
「なぜ? 抱いてよ」
「……出かけるんだ」
 そっと腕を引き剥がす。
「お祖父さまがお待ちだよ」
 ダリューの躰がほん一瞬強ばったが、すぐに緊張は解けた。
「もう大丈夫なんだ」
「ダリュー?」
「あいつの行為を黙って許していたような惨めで情けない子供は、もういないんだ。僕が勝った。だから――」
 そう言ってダリューは耳を澄ますかのように口を噤んだ。
「もうあの薄気味悪い声は聞こえないし、あいつも恐くない。ちゃんと憎めるよ……殺したいほどね。その気持ちだけで生きていけそうなくらい。お祖父さまの病院へ行くよ、喜んで。そしてくたばりぞこないのあいつの枕元で、思いっきり嘲笑ってやるんだ。あんたが犯りたかったんだって…薄汚い変態はあんたの方だって」
 ダリューは晴れ晴れと笑った。すでに隣で眠る少年のことはその意識からすっかり欠落してるようで、ちらりとも見ない。浴室に向かう青年のすっきりした背中を、ウォレンは茫然と見送った。
 やがて聞こえていた水音で我にかえった男は、そのドアに痛ましげな視線を投げ、少年に意識を向けた。
 そっと向き直らせると華奢な躰が、一瞬激しく震える。
「大丈夫だから……もうなにもしない。安心して眠っていいんだよ」
 毛布に包み、宥めるように背中を撫で続ける。頬に涙の跡が残っていた。                 腕の中の少年はあまりにも頼りなげだった。そのことがウォレンに、かつて同じシーンがあったことをまざまざと思い出させた。
 そのとき腕に抱き締めた少年は、ダリューであった。

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