本館 >JUNEちっくわーるど
唇には微笑みをたたえ



二章
<1>  <2>


<1>

 災難は忘れた頃にやってくる――。
 脳裏で点滅する人の悪い笑顔。
 今頃ジョン・モーバリーは、自分が慌てふためく様子を想像してほくそ笑んでるに違いない。
(あのくそったれが!)
 しみじみと友人を選ぶ必要性を噛み締めつつ、空に向かって噛みつく代わりに、クレイグは今日何度目になるかも分からぬ長い嘆息をついた。
 だが嘆息をつかせた原因は、その友の性格だけではない。
 挨拶だけで辞するつもりが、教会と扉一枚で隔てた牧師館に通ってしまったのは、自分の目を疑い、次に青年の存在を疑い、だらしなくも茫然自失に陥っていたためか。それとも青年の、相も変わらぬ突拍子もない美貌ゆえであろうか。
 その、若々しく気品のある面立ちに、心が洗われるような微笑みが浮かんでいる。
「牧師見習いのダリューです。ダリュー、こちらはラッセルさん…わたしの懐かしい友人です」
 そう紹介された青年もまた、見習いにしては少々トウが立っているとはいえ、なかなかのハンサムであった。
 牧師より少し年下、年の頃二十二、三といったところか。
 白っぽい金髪が浮き立たせる乳白色の肌は陽にあたったこともないようだし、煙ったようなブルーグレーの瞳といい、色素が薄いためだろうか。周囲に同化することカメレオンのごとく、もしくは通り過ぎる風のように――うっかりすると見過ごしてしまいそうなほど印象が薄い。
「ちょうど夕食の支度をしていたところですから、ご一緒にどうぞ」
 心地よいその声に誘われたとき、クレイグの脳細胞は未だ混乱するのに忙しかった。
 そういえば――なぜここに彼がいるんだ? という重大な疑問に至ったのは、オムレツ用のフライパンにバターを溶かしているときだ。
 繊細な指を持つ牧師は恐ろしく不器用だったのだ。ダリューの方は卵を割ることすらおぼつかなげだ。
 エプロン姿の男二人がキッチンでうろつく見苦しさに、思い余ってガス台の前に立ち、オムレツの作り方を伝授する羽目になったのである。
 リズムをとるようにひょいとフライパンを反すと、見事にオムレツが裏返る。その度に拍手が起こる。
 からかっているのかと眇め見れば、息子をふくめた三対の瞳に感嘆の色があるのだから堪らない。どっと疲労を感じているうちに混乱から立直ったのであるが。
 その役たたずの男たちとティモシーは食後の運動と称して、食器洗いに精を出しているが、洗うほうも拭くほうもその手つきは危なっかしい。
 精神安定上見ぬが身のため。クレイグは勝手にカップボードから灰皿を出して、食堂の堅い椅子に陣取った。
 テーブル一つにしても、昨今はやりのオールドスタイルきではない、使いこまれた光沢が年期を感じさせた。
 水を流す音を掻い潜って、ぼそりぼそりといった感じの会話が、聞くともなしに耳に入ってくる。
「学校は休みかい?」
「今週はテストだったから」
「ふーん」
「ダリューさんは教会の人なの?」
「……今はね」
 互いに立ち入りを拒絶するような、ダリューとティモシーの短い物言いだった。空間に立ちこめるぎこちない空気は、ひとえにこの二人の頑なさゆえである。
「いつまで休みなの?」
「日曜。だから土曜日にはボストンに帰るよ」
「え…シカゴに住んでいるんじゃないの?」
「……パパはね」
 迷惑そうに、ティモシーはぼそっと呟いて拭いた皿を片付けた。
 クレイグは眉をひそめ、横目で息子を盗み見た。無表情な横顔は何も語ってはいない。赤茶けた髪はクレイグ譲りだ。瞳の色も同色のはずだが、考えてみれば、眠っているときしか息子の顔をまじまじ見つめたことはないような気がする。
 前髪を眉の辺りでぷっつり切り揃え、他の部分は耳にかからない程度に刈り上げてある。小柄な躰を包むオックスフォードのボタンダウン、ネイビーブルーのVネックセーター。それが息子の趣味なのかどうかも分からない。
 結婚生活を解消する前、一緒に暮らしていた頃もどんな服を着ていたか覚えてもいないし、息子の好みを尋ねたこともない。少なくとも、誰の趣味に適うかは明らかだったが。小作りな顔と線の細い感じが、あまりにも無防備に見えた。
 目の端で牧師がエプロンを外し、キッチン横のフックに掛けるのを眺め、クレイグはこれから始まるであろう会話の展開を考えて気が沈んだ。奥さんはあちらに……そうですか。では再婚は……。
 カトリックの神父なら離婚は罪悪だと説教をたれるところだが、彼ならなんと言うだろう。やはり一くさりぶち始めるのか。ましてやクレイグは、息子を保護してもらった弱みまで握られてしまったのだ。
 牧師が振り返った。目が合うと柔らかく微笑んだ。
「疲れさせてしまいましたね」
 それ以上何も言わなかった。態度にその気配すら感じさせない。クレイグは妙に拍子抜けして、静かな微笑みから目を反らした。
「いや……」
「今度いらしたときには、わたしがオムレツをご馳走しますよ。何度挑戦してもスクランブルエッグになってしまうので、あまり自信はないんですが」
 いつもはどうやって食いつないでいるのか。疑問が顔に出たらしく、青年は微苦笑を浮かべた。
「運が悪かったと思ってください。いつも賄いをして下さるご婦人の腰痛がひどく、今日はお休みいただきましたが、彼女の手料理は絶品なんですよ」
 電話がかかってきたのはそのときだった。牧師が優雅に受話器を取り上げた。しばらく応対していた牧師が、ふいに真っすぐクレイグを見つめる。
「クレイグ、車はどこに置きました?」
「この前の通りに入る少し手前。ここが分かりにくかったんで、そこから歩いたんだ」
「ブルーグレーのホンダですか?」
 こういう場合、咄嗟に思い当るのは駐車違反だ。
 近隣から通報があって、タウンシップ・ポリスが小遣い稼ぎにやってきたのかと、不愉快ながらも軽く考え、頷いて見せたのだが。
 困惑する相手の表情に、漠然とした不安が湧いてくる。そして、不幸なことにそれは見事的中する。
 クレイグ・ラッセルにとって今日という日は、どこまでいっても、とことんドン詰まりの厄日だったのである。
「……ボンネットが開いていて」
 牧師が同情をこめてゆっくりと宣告した。
「エンジンがなくなっているそうです」



 子供の頃を思い出して羊を数え、寝返りを繰り返し、眠りの訪れを心待ちにしたが、ついにクレイグはむくりと起き上がった。
 時、所を選ばす眠れるのが身上であったが、怒涛のごとく降り掛かったサプライショックの後遺症は深かった。
 すべて身から出たサビゆえに飲み込まざるを得ない苛立ちや怒りや、再び会うことはないと思われた人物の登場――煩悶するしかないではないか。
 少し奥まった場所に位置するためか、辺りは静寂が落ちている。
 腕時計を薄闇に透かして見れば、恐ろしいことにまだ十時にもなっていない。ほんの先には眠りを知らない大都市シカゴがあるというのに。
 隣のベッドでしごく健やかに、寝る子は育つを実践中の息子をかえりみる。
 注意深く開けたドアは、クレイグのささやかな願いを裏切って甲高い音を起て、次に来るときにはオイルを差し入れよう――漠然とした思い付きの発想に、クレイグは思い切り顔を顰めた。
 モーバリーが太鼓判を押した通りに、物事が動いていく。
 これはなにかの陰謀か……?
 キッチンの薄暗い内部に目を慣らすべく突っ立っていたとき、
「眠れませんか?」
 ふいに、背後から声が掛けられた。クレイグは心搏が跳ね上がったことなどおくびにも出さず、振り返った。
「まだ宵の口ですからね」
 少し低い魅力的な声。
 クレイグが入ってきたドアとは別のドアが極めてなめらかに開き、背後に白っぽい闇を背負った人影が佇んでいる。
「わたしももうしばらく起きていますから、よろしければお相手しますよ」
 柔らかく響く低音で囁くサプライショックの実体が、躰を横向きにして「どうぞ」と招く。 
「うまく化けたな」
 すれ違いざまにクレイグが少しヤケ気味に投げた言葉は、捨て台詞に聞こえたかもしれない。
 かくして、青年がここにいる理由を追求するチャンスがようやく巡ってきたのである。が、通された部屋の入り口で、クレイグは思わずたたらを踏んでしまった。白く煙るような闇は、コンピュータのディスプレイ画面の光の反射だ。
「何がです?」
 青年はしれっと応え、フロアスタンドのスウィッチを入れた。
 柔らかく満ちた明かりが、いたってシンプルかつ質素な部屋を浮き彫りにする。くすんだ色合のカーテン(たぶん陽に焼けて色褪せたのだろう)を引いた窓。その前の、ちょっと稚拙な感じの彫刻をアクセントにしたテーブルや、同じ作り手によるものらしいベッドが、部屋に温もりを与えていたが、不思議と生活臭が感じられない。その中で異彩を放つパソコンの鈍い輝き。
 角が擦り切れ掛けたソファの、ハードウェアに背を向ける位置を選んで座ったのは、クレイグの脳味噌が無意識にその光景を拒否したためか。
 やがてクレイグは、青年の私物らしき物がほとんど見当らないことに気づいた。
 整然と片付いた部屋は脱け殻のようだ。そこで生活している人の匂いも、気配もない。
 目の前をすっと横切った長い指が、今の今まで使っていたらしいキィボードを幾つか操作してからスイッチを切った。
「ナイトキャップでも差し上げましょうか」
 そう言った青年の瞳に悪戯を思いついた子供のように煌めいたのは、気のせいか。
 牧師はキッチンへ行った。陶製の壜と小振りのグラスと戻ってきて、優雅に向かいのソファに腰を下ろす。
 白濁した液体を満たしたグラスを受け取りながら、クレイグはようやく相手をしっかり見た。
 頬が細くなったようだが、髪が短くなったせいかもしれない。ゆるく後ろに撫で付けた黒髪が、形の良い額に幾筋か落ちている。生気が滲みでている切れ長の涼しい黒瞳。慎ましやかな微笑みを浮かべた唇。
 宗教画に描かれた告知天使のモデルだと言われても納得してしまいそうな――もっとも、クレイグは寡聞にして、黒髪でモンゴロイドの天使がいるかどうかは知らないのだが。
「納得しましたか?」
 耳に心地よい声が言った。
 クレイグは気まずく咳払いして、一気にグラスの中身をあおり、思いっきり咽せた。
「大丈夫ですか?」と言うのを片手で制し、焼けつくような熱さが喉から胸の中心へ通り過ぎてから、目尻に滲む涙を指先で拭った。
「百合根の酒です。いかがですか? なかなか衝撃的でしょう?」
「……強烈だな」
「ちょっと香りにクセがあるので好みが分かれますね。丹精込めた百合根で毎年仕込みますが…対外的には内緒です。こっそりひっそり作ることに意味があるんだそうですよ」
「対外的に内緒?」
「禁酒法時代からの伝統だそうです。罪のない密かな楽しみといったところでしょうか」
「罪のない…ね」
「地下組織というか…秘密クラブまであるんですよ。入会基準が厳しくて、六十六歳以上か、寡(やもめ)の殿方しか入れませんが」
「あんた…いや…牧師さんは基準を満たしてないようだが」
「レスターでもリンフォードでも、呼びやすいほうをどうぞ。ここはカトリックともプロテスタントとも宗派が違います。したがってわたしも洗礼名を持ちませんので。…ですから公式にはわたしも知らないことになっていますよ。暗黙の了解というやつです。この牧師館のキッチンで仕込みますのでね」
 唇を引き上げる筋肉の構造に違いがあるのかもしれない。思わず陶然と引き込まれそうな微笑。どうやったらこんなに魅力的な笑みが作れるのだろう。
「それも伝統なのかな」
「古き良き時代のね」
 ひとつの謎が解けた。世にあぶれる男が多いのは、どうやら人口比率の問題だけではないらしい。こんな男がいたら、女は身近にいる男なぞさぞかし薄っぺらに見えてしまうだろう。端麗ではあるが決して女性的ではない、男の顔。生気が静かに溢れ出る男の顔だ。
 クレイグは同じ男として、エミグラントの男たちに深い同情を寄せる。
「もう一杯いかがです?」
「共犯に仕立てようって腹か」
「いえ。どちらかというと賄賂です」
 リンフォード牧師が二つのグラスにふたたび密造酒を注いだ。
「車のことはお気の毒でした。先ほど長老と話をしまして、明日には戻しておくように手配を頼みましたから」
 思わずグラスを運ぶ手を止めて、クレイグはまじまじと青年の顔を見つめた。
 自動車泥棒が、まさか組織だって行なわれているわけではあるまいが、少なくとも常習犯がいて、長老という人物や目の前の青年は知っていて黙認している――ということだろうか。
「魔がさしたのだと思ってくださいませんか。 チューンナップしたい物があったらしくて……機械マニアなんです」
「なるほど……そういうわけか」
「はい」
「のんびりしたものだな。……ドアの蝶番の油が切れているのも、わけありってことか」
「お分りでしたか」
 リンフォード牧師は少し目を見開き、やや間を置いて答えた。
「お客さまにも色々な方がいますから」
「相変わらず剣呑な男だな。こんな気の抜けた町でも用心を怠らないとはね。エルサルバドル時代の癖が抜けないのか」
「出来心でよからぬ思いに捉われる人の抑止力的効果も狙っているんですよ。神は罪を犯すように人をお作りになっているものですから」
 そう言って、罪作りな牧師は心地よいくすくす笑いを向けるのだった。
 その素晴らしい微笑みは偽りではないだろう。だがクレイグは、それがふてぶてしい力を持っていることを目のあたりにしてきたのだ。
 声もなく、口元が綻んだ。
 二度とその微笑に騙されまいと、青年に対する意味のない攻撃心がもたげてくる。牧師の笑みに見惚れた脳細胞が持ち主を見限ってしまわぬよう、防衛本能が働いたともいえるが。
「ゲリラのボスがこんな寂れた町で牧師とはね。……町の人は知っているのか?」
「もちろんです。何といっても引抜きですから」
「は……?」
「よく言えば、ですが。トリビューンに掲載されたあなたの写真が発端となりまして。残念ながら、かの地での布教活動がバチカンの皆様にはお気に召さなかったらしく…追放となりましたが」
 そりゃそうだろう。顔中炭を塗って、自動小銃を担いでいた神父なのだ。士気の鼓舞を狙った説教と(ほとんどアジ演説だ)、ゲリラ戦の指揮が布教活動と呼ぶのであれば、反体制者は皆、敬虔な宣教師になってしまう。ローマ教会の賢明な判断に、クレイグは深く頷き、賛同の意を示した。
「この町の長老に、牧師として呼んでいただきました」
 拍子抜けするくらい悪怯れた様子もなく、リンフォード牧師はにっこりと白い歯を見せた。
 この世に生を受けたときから一切の汚辱から隔離され、聖職者となるべく定められたがごとく、一点の曇りもない美しさと無邪気さを装って。
「……よくここの住民が余所者の牧師を認めたな。いつからここに潜り込んでいるんだ?」
「四年になりますね。しばらくは物見高いお客さんで大変でした。禁酒法時代、黄色い肌の連中と敵対していたという歴史的背景がありましたから、抵抗があっても仕方ないんです」
 バチカン追放の汚点も汚点と感じないらしい、ワイヤー並みの神経でも悩みはあるらしい。牧師の切れ長の目が苦笑に溶ける。
「もっとも長老は、わたしの牧師としての能力だけを求めたのではありませんけどね」
 町起こしのためです、と牧師はグラスを掲げ、クレイグのグラスにちょんと当てて皮肉な乾杯をした。


 さて――
 おんぼろアパートの一角を占めた牧師館とはちゃんちゃら可笑しいが、そう呼び慣わされる(言ったもん勝だ)一室には、眠れぬ夜を過ごす者がもう一人いた。
 ダリュー・カイブルはベッドの端に腰掛け、壁に掛かった絵に向いていたが、その淡緑の瞳はもっと遠くを見ていた。
 その顔には苦しげな表情が浮かび、両手は膝の間でかたく握り締めて、独りシリアスなるもの想いに沈んでいる。
 壁の向こうの少年はすでに眠りに就いているはずだ。あの年頃の子供なんて枕に頭をつけた途端、コロッと眠れるものだから。その規則正しい呼吸が聞こえてくるようだ。
 産毛が光る頬やまだ華奢な骨、甘酸っぱい汗の匂いは残照のようなものだ。思春期の入り口に差し掛った少年が、間もなく失うものだ。そう……間もなく。
 ダリューの場合はある日突然、その時が来た。微かな前兆すら感じさせず、それは襲いかかってきたのだ。
 キイィ…と唐突な耳障りな音が、沈んでいたダリューの思惟を引っ掻いた。
 少年が寝ている部屋のドアの蝶番だ。遊園地のお化け屋敷じゃあるまいし、とんだ虚仮威しだ。あの美しい牧師は気にならないのだろうか。
 あの足音は少年の父親のものだ――いや……あいつかもしれない。
 ダリューの躰が硬直する。
 今にもドアが開いて入ってくるんじゃないか……。
 いや――足音はこの部屋とは反対の方に向かっている。
 ダリューはほう…と息を吐き出し、立ち上がって、伸びをした。
 馬鹿みたいだ。ここなら大丈夫だとウォレンが言っていたじゃないか。もちろん鵜呑みになんかしないけど。
 ダリューは突然のように暗闇を意識した。
 躰を硬くしてやり過ごしてきた、幾つもの夜――ちょうど隣室で眠る少年と同じ年令だった。
 シーツと毛布の間に潜り、ダリューは躰ごと壁の方を向いた。足の間に手を滑らせ、自分を握り締める。不安や屈辱や反抗、それらもろもろの感情を綯い交ぜにした、苦しいほどの寂寞を抱いて、やり過ごしてきた夜と同じように。
 冷たく冷えた手の中で、それは熱く震え、ダリューは安心したように目を閉じた。

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<2>

 牧師館のある奥まった石畳の通りからアスファルト舗装の道路に出て、クレイグは、なぜ、人だかりが出来ているんだろうと考えていた。
 路肩に置き去りにされて、車ドロの憂き目にあったブルーグレーのセダンに朝日が反射して光っている。
 ぱっかり口を開けたボンネットの中に頭を突っ込んで、今まさに食らわれんという体勢なのが、エンジンを返しにきたコソ泥だとして――周りに七人ほどの人影があるが、ついでに車ドロ講習会でも開いているんじゃあるまいか?
 ほんの少し高いトーンで話す子供の声はティモシーのようだが、それに参加しているのなら、ちょっと問題かもしれない。
 クレイグが父親の義務感に駆られ、息子の姿を探す視線の先。金髪の見習い牧師の陰に小柄な背中が見え隠れしていた。
 ティモシーは遠慮がちにボンネットの中を覗いていたが、やがて身を乗り出して盛んに頷いたり、何か質問している。
 どうせなら、いかに防犯すべきかを学んでくれればいいんだが。
 どこかずれた思考は、昨夜の百合根酒の残滓ゆえか。
 クレヨンの水色を塗りたくったような青空のもと、北から東にかけて白いビルディングや橋やループ(高架環状線)が精緻な彫刻のように立ち並ぶシカゴ市街が広がっている。
 それを望むこの町は寂れるに任せるがごとく、時の流れを止めているかのようだ。
 禁酒法時代の伝統は百合根酒だけでなく、町並みにも生きている。
 赤錆びた外階段が下った石造りのアパートや、迷路のようにくねくね伸びた石畳の路地に渡したロープにはためく洗濯物。
 その一方で改修工事も進んでいる。かつて盛況を極めたであろうカジノはレストランにでも化けさせる予定らしいし、アンティークな鋳物の街灯は磨きがかけられて鈍い光沢を取り戻している。
 どこか懐かしい郷愁は、時をさかのぼっていくような錯覚すら与える。
 観光を売り物にするのなら、多少軽薄なニュアンスを込めて、ギャングとジゴロと娼婦が闊歩していた、退廃漂う『懐かしき狂乱の二十年代( ローリング・トゥウェンティーズ)』とブチ上げたら面白そうだ。
 しかし時代を経た物ほど、なまじ修理したり改装する方が、新築するより割高になるのが常識だ。維持や保存など手間暇かかることを職人は厭うし、技術が進歩するかわりに、古い手法なぞさっさと忘れられていくものだから。
 では、その金はどこから出た?
 密造酒で稼げる時代でもあるまい。
 産業らしい産業もない老人村のようなエミグラントのどこに、それだけの金があったというんだ?
「お早ようございます、ラッセルさん。ご気分はいかがですかな」
 いつのまにか間近に立っていた老人が、快活に話しかけてきた。
「昨夜はご迷惑をかけましたな。先ほど牧師さんからこのことは不問にして下さると聞きましてね。ありがたく思ってますよ」
「百合根酒で買収されました」
「ほっほ…それで、お気に召して頂けましたか?」
「鼻先でダイナマイトを振り回されるよりは好みですね」
 面白そうに老人がクレイグを眺めた。 
「では後ほどたっぷりお届けしますよ。けちったために買収工作が破綻したとあっては、お骨折りいただいた牧師さんに申し訳が立ちませんからね」
 初対面ながら旧知の知り合いのごとく、にこにこ話す老人は、顎と視線でクレイグの車の方を示す。
「いくらパーカーが変り者とはいえ、あの年でポリスのお世話になるのは気が引けましょうから。…あ、これは失礼。わしはオーテンショーと申しまして、エミグラントの…まあ世話人みたいなものですがね」
 ようやく正体を明かした老人である。そのパーカーなる人物が機械マニアの泥棒らしいと見当をつけたものの、今一つ話が見えない。
「牧師さんのお知り合いと分かっていればパーカーも自重したんでしょうが、こと機械となると目先のことしか見えなくなるご仁でしてな」
 クレイグは老人と並んでつらつら歩きながら、見通しの利かない話に、適当に相槌を打った。
「観光客は車できますよ」
「はいはい…そのたびにエンジンやタイヤが無くなったら面倒なことなるでしょうが、ちょっとした対策も検討中でして。まぁなんとかなるでしょうよ」
 老人の楽観的かつ楽天的見通しが暴露された頃、クレイグは人だかりの一員となっていた。ふと、息子と目が合う。
 ティモシーは面白くもなさそうに「やぁ、パパ」と言って、オイルで黒く汚れた指先に視線を落とした。
「車はなおったのかな」
 取って着けたような台詞だと、クレイグの苦い自覚を見透かしたように、ティモシーは右の眉をちょっと引き上げて右の肩を軽く竦めて、さあね、とジェスチャーで伝えたティモシーの頭の上に、にゅっと男の顔が出てくる。
「パーカー、こちらが――」
 オイルだらけの手をタオルで拭いて、そのタオルで首筋を拭いながら、開口一番、
「あんたかね、このボーヤの持ち主は」
 オーテンショー老人の声など聞耳持たぬ男もまた、エミグラントの平均年令に相応しい容貌の老人であった。
 同じように齢を重ねた皺深い顔の見学者が、素早く目を見交わしてニヤニヤ笑いを浮かべる。これから何が起こるか、充分察知しているようだ。
 例外は、カーペンターパンツに各種ドライバーやらスパナやら差した男たちで、改修工事の職人たちらしい。
 変り者と評される老人は、なるほどその服装から変わっていた。
 西海岸に似合いそうなグランジルック。色褪せた長袖に重ねたNOMOプリントのTシャツの中で、ひょろりとした躰が泳いでいる。足元はナイキのシューズと若者真っ青だ。
「ボーヤがよくヘソも曲げずにここまで走ったもんだ。ろくに手入れもしていない。いつエンストしてもわしは驚かんね。虐待するくらいならわしに譲るべきじゃないかね」
「パーカー、その前にラッセルさんに謝るべきじゃ――」
「このボーヤの様態を知ったら、長老だって情けなくなるだろうよ」
「これ、お客さまが面食らってしまうよ」
 微かに、老人が溜め息をついた。
 自動車を擬人化して、まるっきりの親馬鹿振りを発揮する機械マニアには、さしもの長老ことオーテンショー氏も手を焼いているようである。
 すでに充分面食らっているクレイグが、ようやく口を開きかけたとき、パーカーは老人とは思えぬ身のこなしで運転席にまわり、キーを回した。
「あのキーは……」
「僕だよ、パパ。さっき頼まれたんだ…パパは眠っていたから…だから…」
「いや、いいんだ」
 どちらにしろ鍵など意味を持たないのは、昨夜のうちに実証済みだ。母なる体内に戻されたエンジンがブルブル震え……重い重い溜め息をついて終息するイグニッションノイズ。
「パパ……」
 再度キーが回されて、アクセルが踏み込まれる。年寄りの喘息発作のような擦れたノイズ。エンジンは一向に動く気配がしない。
 ティモシーはそっと声をひそめた。
「壊れちゃったの?」
 無言でクレイグは、息子をちょっと見つめた。それから無表情のまま、ついっと視線を愛車に戻し、そしてまたティモシーの顔を見た。
「……壊されたと言うべきかな」
 伝言ゲームでもしているように、ティモシーは背後のダリューを顧みた。それを上目遣いに保護者に戻し、肩を竦める。
「まだ機嫌がなおらんかな。よしよし、今見てやるからな」
 機械マニアの老人がさも愛しそうに車をあやす。すでに所有者の存在は忘却の彼方に押しやったらしく、クレイグ達を一顧だにせず、いそいそ車の下に潜り込んでいる。
「――あー……」
 さすがに困惑を通り越した渋面を作った長老は、なぜかクレイグと目を合わせない努力をしていたが、やがて諦めたように溜め息をついた。
「心配いらないよ、長老。パーカーのことだから、ちゃんと直すさ」
 見学者の誰かが言った。オーテンショーはそれに力を得たのか、
「……という訳ですな。今日中には帰れましょうよ」
 慰めにもならぬ言葉に、クレイグはしみじみと厄日が続いているらしい実感を噛み締めるのだった。
「わしの家でお茶でもいかがですかな。そろそろ菓子が焼き上がる頃じゃが」
「いえ…遠慮しておきます。ちょっと連絡したいところがありますから」
 個性的な老人パワーにクラクラしていたクレイグは、慎重に言った。
 モーバリーに話してやったら、さぞかし面白がることだろう。あっという間に、面白可笑しくコラムにしそうである。
 もちろん彼に親切にしてやりたい気分とは程遠いクレイグにそんな気はさらさらなく、連絡云々は方便である。
「それは残念ですな。そちらの息子さんとダリューさんは? ばーさんは菓子作りが得意でな、誰かに食べてほしくてうずうずしてるんだよ」
 ちろりと、ティモシーが父親を見上げた。
「行きたいのか?」
 微かに頷く。
「でも、もう少しここで見ていたいんだけど。……まだあまりお腹も空かないし」
「そうかね。じゃ、後でいらっしゃい。ばーさんも喜ぶよ。ここは若い人が少ないから大歓迎じゃよ。ダリューさんもご一緒に。お待ちしてますよ」
 いつのまにか、招かれてしまったダリューが引きつった笑みで応える。
 言うだけのことを言って、オーテンショーは踵を返した。
 真っすぐ背筋を伸ばしてタッタカタッタカ歩いて行くのを見ると、悠長な話し方の割に行動は気短そうで、パーカー老人と通じるものがあるようであった。
 牧師館の前では、リンフォード牧師が深まりゆく秋の柔らかい木漏れ日の下、しっきりなしに舞い落ちる落葉と格闘していた。
 青年は牧師服(キャソック)を思わせる黒のスタンドカラーのシャツを纏っていた。弱い陽光が、艶やかな黒髪に滲んでいる。
 牧師の日課なのか、賄いのご婦人とやらの腰痛が癒えなくて止むを得ずかは不明だが、クレイグはしばし感動していた。庭箒で落葉を掃き集める姿をこんなにも優雅に見せる人間がいるものだろうか。
 リンフォード牧師がクレイグに気づいて、軽く頷き微笑んだ。
「やぁ、その様子じゃあ、車はまだなおりませんね」
 クレイグは憮然とした面持ちで頭を振った。
「エンジンは無事に戻ったが、動かん」
「ボーヤが駄々こねた…という訳ですね。でもご心配には及びません。パーカーさんに任せておけば、大丈夫ですよ」
「ボケてるとまでは言いたくないが…」
 疑惑と顔に書いたクレイグに、牧師は子供のように笑った。
「お年は召していますが、カクシャクとしたものですよ。ご趣味が修理なんです」
「車の?」
「モーターやエンジンが付いているものならなんでも。熱心になおして下さいますよ」
「――長老に会ったよ」
「お茶に誘われませんでした?」
「あぁ……俺は遠慮させて貰ったが、ティムが約束していた。お菓子の誘惑にはまだ弱い年頃らしいな。ダリューの方はさせられたクチだが」
「そうですか。ではじきにミルドレッドさん……オーテンショー夫人ですが、今の時期ですと、きっとアップルパイを届けてくださいますよ。手ぐすね引いてあなたの訪問をお待ちでしていたのでしょうから」
 何が可笑しいのか、リンフォード牧師は含み笑いを洩らし、クレイグの白い視線に(お下劣にも)片目を瞑ってみせた。
「あなたにはお気の毒ですが、わたしの友人が牧師館にお泊りになった――これはニュースですからね。極めて変化の乏しい町では仔細な事柄でも噂となるのは、あなたもご存じでしょう」
「排他的な町だと聞いていたんだが、違ったのかな」
「いいえ、その通りですよ。一過性の…行きずりの人に対しては非常に寛大なんです。でもここで十年暮らしても余所者は余所者。表面はともかく、決して中には入れないんです。だからこそ平穏でもあるんですけどね」
「――厭な町だな」
「ええ。……でもどんなに平和に見えても、秘密や裏切りはあるものなんですよ。人が生きて……生活している以上はね。……素敵だと思いませんか」
「あんたが一番胡散臭い」
「もちろんです。相手の上をいく狡猾さがなければ、信仰を説くことなど出来ませんから」
 クレイグは耳を疑った。これは何かの聞き間違えか? いくら何でも…
(神の下僕たる牧師の発言かぁ?)
 無意識に胸のポケットから煙草を一本取り出してくわえたが、手の中でライターを玩びつつ、火をつけることまで考えが及ばない。
 紛争地域ばかりを巡り歩いているクレイグ自身は、神やら仏やらからも思いっきり遠くに来てしまった。目の前で傷ついた人間を手当てするより先に、それをカメラで見据える仕事というのは、どうやら神よりも悪魔に近く位置しているのだろう。
 だからといって、牧師や坊さんに狡猾さが必要だと居直るほど、人間醒めきってはいないのである(単に諦めが悪いだけかもしれない)。
 そんなことをつらつら考えながら横目で盗み見た牧師は、未だ多くの葉を残す梢を見上げた。眩しそうに目を眇める白皙の横顔に、木漏れ日がまだらな影を落とした。
 さりげなく垂れた数本の前髪が、美しいひたいに気品の翳りを添える。
 絶え間なく舞い落ちる落葉に、やれやれ…というように、うっすら開いた
唇が吐息をつく。
 かつて、悪魔は天使の一族だった――そういえば、悪魔は黒髪だったか……。
illute/藤 智様
 クレイグの心の奥で何かが熱く蠢(うごめい)いた。下腹にもやりとわき立つ妖しい感覚……。
(――ちょっと待て……?!)
 唇から火をつけ忘れた煙草がぽろりと落ちた。
 もちろんこれは、フラスコ画の天使を鑑賞するようなものだ。美しいものを美しいと認めることに、性別は関係ないさ。
「キリがないですね。アップルパイが届いたようですし」
 つと振り向いた牧師の視線の先。
 ピンク色の頬をしたふくよかな婦人が、人のよさそうな笑みを満面に浮かべてやって来る。むっちりした腕に下げたバスケットからか、婦人のたっぷりした躰からか、甘くシナモンが香った。
 牧師が石畳から煙草を拾い上げて、差し出した。 
「わたしたちもお茶にしましょうか」
 クレイグの混乱など気づかぬように、庭箒を片手にした青年は美しくも涼しい顔を向けるのだった。
「お客さまはいつでも大歓迎ですのよ。ここにはお若い方って少ないですからね、楽しみなんですよ。でも殿方にはお仕事がありなすものね、ええ、仕方ありませんわ。ですからアップルパイをお持ちしましたのよ。……いえ、気になさらないでね。ぼっちゃんの分もちゃんとありますからご心配なく。まだお会いしてないんですけど、可愛いぼうやですってね。そろそろみえる頃かしら。あら、すぐ戻らなければ。お茶の支度は、牧師さんにお任せしてよろしいんですの? 助かりますわ。……今度はぜひ我が家にいらしてね、ラッセルさん。お待ちしておりますわ」
 立て板に水のごとく溢れ続けるおしゃべりの余韻を残して退場。
 そのオーテンショー夫人手作りのアップルパイのボリュームが、甘味の苦手なクレイグを泣かせた。
 いつまでも口に残るパイの甘さに閉口して三杯のお茶を飲み、ガボガボの腹を擦り、怠け者のクマのごとく眠りたい誘惑と戦っている最中に、車がなおったと連絡が入ったのは間がいいのか悪いのか。
 無事閉じられたボンネットに座るティモシーと、運転席のドアに凭れたダリューが、シカゴの街を見ていた。何を話しているのか、ティモシーが子供らしい動作をしている横で、腕組したダリューは小さく笑って頷く。
「どうやら親交が結ばれたようですね」
 牧師の台詞には、どこかほっとしたニュアンスがあった。ティモシーの頑なさに牧師らしい気遣いを見せたのだろうと、クレイグは漠然と考えた。
「どうも…少し内向気味で」
 果たしてそうだろうか。ダリューに向ける笑顔に、甘えた表情が感じられるのは気のせいか?
 ティモシーの頑なさは、自分の前だけかもしれない。
 リンフォード牧師は形のいい眉をちょっと動かした。
「親が思っているより、子供はしっかりしているものですよ」
 ダリューを見上げてくすりと笑った。ティモシーの細いうなじは、片手で縊れそうなほど細い。
 わずかに震える薄っぺらな背中があまりにも無防備に見え、その不安定な年頃を象徴しているかのようだ。
 だが、牧師の言うとおりかもしれない。たかだか一年にほんの一、二回会うだけの父親に、息子の心のどれほどが分かるというのだろう。
 視線を断ち切るように、クレイグは振り返った。
「思いがけず長居をしてしまって申し訳ない。このまま失礼するが、長老さんや夫人によろしく伝えてほしい」
「パーカーさんと、あえて言わないところが、あなたらしいですね」
 リンフォード牧師が手を差し伸べた。
「クレイグ、またいらして下さいね」
「いずれ、また」
 クレイグは握り返した手にちょっと力を込めてから、離した。オムレツも作れぬ不器用な手は白く、すんなりしていたが、決してひ弱ではなく、しっかりとして弾力があった。
 ティモシーを呼ぶと、振り返って、それからちらっとダリューに目をやった。のろのろボンネットから下りて、さっさと車に乗り込んで窓を下ろす。
 牧師が窓越しに赤茶色の髪に手を置いて微笑んだ。
「ティム、また遊びにいらっしゃい」
「はい」
 ティモシーが生真面目なしかめっ面で頷く。ダリューは、牧師見習いにしてはかなり砕けた雰囲気で「バイ」と手を振った。
 ハイウェイに出て、シカゴの喧騒に覆われていくに従って、アル・カポネの忘れ形見のごときエミグラントが――認めにくいもう一つの理由には目を瞑り――ほんの少し、名残惜しい気がした。
 思いがけず気持ちは、窓を流れる景色のように爽快だった。ティモシーも同じように見えた。シートに埋まって、ぼんやり外を眺めている。
 今なら――親子らしい会話ができるかもしれない。少しは打ち解けられるかもしれない。世間並みなど贅沢は言わない。それなりに見合った程度でいい。
「ダリューさんとどんな話をしてたんだ?」
 ティモシーが口を開くまで、しばし時間があった。
「……いろいろ」
「たとえば?」
「……ダリューさんも僕と同じなんだ」
 ぎこちない息子の物言いだった。寒々しい予感だけはよく当たるのが世間の常識である。そしてそれが裏切られることは少ない――有り難くないことに。
「でも、僕のがマシなのかな。ダリューさんのパパは離婚してすぐ死んじゃったんだって。ママは行方不明だし」
 腹に砂を詰め込んだというか、火傷に粗塩を揉み込んだというか――つい先ほどまでのクレイグの甘い感傷なぞ瞬く間にすっ飛んでしまう。
「お祖父さんがいるけどすごーく仲が悪いんだって。辛いよね」
 クレイグは何か気の利いたことを言おうと口を開きかけたが、結局は沈黙するしかなかった。
「だから……」
 僕のがずっとマシなんだ……自分に言聞かせるように小声で呟いた息子の声に、疲れたような響きがあった。
 気不味い沈黙が続いた。
 ティモシーは涙ぐんでいたのかもしれない。
 クレイグはじっと前を見据えていた。横を振り向く勇気がなかったし、本当のところ、息子の顔を見たくなかった。
 道路は渋滞が始まっていた。フラットに帰り着いたときには、すでに昼を大幅に回っていた。
「腹、減ったか?」
「ううん。アップルパイがボリュームあったし…かったるいんだ」
 ティモシーは実際疲れているようだった。
 重苦しい沈黙に対して。
 父親失格の父親に対して。
 居間のソファで欠伸を繰り返していたが、クレイグがキッチンからビールを持って戻ってきたときには、すでに眠り込んでいた。肘掛に凭れた首が、筋違いを起こしそうな角度に傾いでいる。
 息子の鼻に頭に浮かんだ小さな汗の粒を親指で拭ってから、その躰を楽な位置にずらしブランケットを掛けた。ティモシーは僅かに身動いだが、そのまま眠ってしまったようだ。
 斜向かいのソファにどさりと座り込んで、クレイグは息子の寝顔を肴にビールを空けた。
 血の繋がりとは厄介なものだ。どんなに気まずくてもしがみついていなければ不安になる。
 もう一本呑みたい気分だったが、そのまましばらく動きたくなかった。クレイグも疲れていた。

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