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太陽の西 月の東


月待ち

<1>  <2>  <3>



<1>

「昂雪(あきらゆき)皇子がご到着されました」
 小姓の言葉に春風は書類から目を上げ、めったに見られぬ怪訝な顔を見せた。
「約束があっただろうか」
「いえ。……早朝使者がまいりました際、忙しいとお断わりしたのですが……」
 里見は遠慮がちにではあるが、皇子に対する不満を口にした。
「実力行使に出たか」
「お断わりしますか」
 すずやかな両眼にだけ苦笑の色が浮かんで、すぐに消える。
「そういうわけにもいくまい」
「でも不作法は先方様です」
 言外に、継承一位とはいえ皇子より最高神官のほうが身分が上だと言う里見に、春風は皮肉っぽく笑いかけた。
「仮にも従兄殿だからな。顔くらい見せねばなるまい」
 皇子ら一行をしばらく待たせて、執務室の奥の私室に通り、衣服をととのえた里見が丁寧に髪梳きなおし、一つにまとめる。
「なんのご用でしょう」
「会えば分かる」
 さらりと立ち上がった春風は、完璧な笑みを浮かべていた。


 昴雪皇子の前にあらわれた春風は、彼の記憶にある茫洋たる空気ではなく、堂々と落ち着いた風格を漂わせていた。
 白晢の肌に、目見はあくまですずやかで澄んでいる。すんなりとした長身に格式ある神官の官衣をさらりと自然にまとい、それでいて威圧感と信頼感を同時にあたえる。
 それから逃れるように、皇子は来賓用の部屋を見渡した。
「見事な調度だな。内裏のお住まいより立派ではないのか?」
「ここは私個人の城ではございませんゆえ」
 皇子の嫌味にそれ以上の辛辣さで応える。
 藍色の硝子をはめ込んだ高窓から降り注ぐ光が、幻想的で清浄な雰囲気を醸し出し、滑らかな絹の絨毯の上には、優美な曲線を描いた椅子が並んでいる。
 部屋の装飾品のすべてを金に換算しようとする貪欲な眼差しに、春風は軽く苦笑をもらした。
「心ある方々の寄進の品々でございますが……。よろしければお気にめした物をお持ち帰りください」
 とたんに皇子の目がらんと輝く。
「よいのか? この座卓も見事だし、あの壷もなかなかのものだ」
「昴雪殿のお目にかなったとなれば、方々も光栄でございましょう」
 恥じることなく熱心に値踏みする男に、うんざりした顔は見せず、
「それで、突然のご訪問はなにごとです?」
 やわらかな口調にはいささかながら嫌悪がふくまれていたが、相手はまったく気にならないらしい。
「そうだった。忘れておった。内裏からの親書が届いたのでな」
上着の隠しを探り、書状を差し出す。
「わざわざご足労願わなくとも、こちらから伺いましたものを」
「いや、よいのだ。桂月宮を見せてもらうよい機会だと思ってな」
「これは急なお申し出ですね」
「なにかまずいことでもあるのか?」
「いえ。……私はちょっと都合がつきませんので、ほかの者のご案内でよろしいですか」
「それは残念だな。まぁよいわ」
 横柄に頷く皇子の脂ぎった顔に浮かんだ好色な色を見ないようにして、春風は扉の外に控えている小姓をよばった。
「皇子殿をご案内してくれ」
 春風の命に短い返事をすると、里見は踵を返した。
「どこへ行ったのだ」
「係の者を呼びに。すぐにまいります」
 皇子は刻を待たずして、里見が伴って戻ってきた若い神官に引き会わされた。
「この者がご案内いたします」
 春風の言葉に、神官が一歩前に出て一礼する。色白の肌に甘く整った面立ちの神官に、皇子は満足げな笑みを浮かべた。
「それではまいろう」
 神官に案内されて――というよりは、急き立てて来賓室から出て行った。
「あれには気の毒だが……気がきくな」
 皇子の趣味に添う人選に苦笑混じりの声をかけると、里見は真っ赤になって俯いた。
「まぁ神殿のなかで押し倒されることもなかろう」
「いくらなんでも、そこまでなさいませんでしょう?」
 上目遣いで主人を見上げる里見の上気した頬には、思春期の潔癖さがあらわれている。
「どうだかな」
「もうひとりお付けするように伝えてきますっ」
 返事も待たずに小走りにいく小柄な後ろ姿を苦笑混じりに見送ってから、春風は座卓を振り向いた。
 内裏の親書が収められた封書は、自分の後継者によってぞんざいに扱われ、少し歪んでいた。


 桂月宮の中央部にある『破翔廊』をゆるやかな曲線で取り囲んだ回廊を、山吹はゆっくりとした足取りで歩いた。
 ここを己れの戦場と決意したのは、遠い日だ。
 選択の余地がなかったわけではない。普通の暮らしを望む方法もあった。
 だが――。
 過去を懐かしむほど生に倦んでいるのではなく、感傷に浸れる身分でもないことに気づき、山吹は皮肉に唇を歪めた。
 やがて自分の執務室の前で止まり、隠しから鍵を取り出し、ふとその手を止める。
 背後の気配に振り向くと、ひそりと近づいてきた諸衣が厳つい顔に憂いを浮かべて目礼をした。
「もうよろしいのですか」
「面倒をかけた」
「アヤカシを捕縛しました」
「……中で話そう」
 山吹が自室の鍵を解き、諸衣を招き入れる。
 一歩、足を踏み入れたとたん、植物の生気が身体を押し包む。清涼な空気が肌を刺し、五臓六腑に沁みわたる。
 機能的ではあるが殺風景な山吹の執務室に、唯一彩りをそえているのが、大人の身の丈二つ分ほどもある天井まで、いっぱいに葉を茂らせた樹木だ。華奢な幹は根元でも赤子の腕ほどしかない。土を入れているわけでもない床に生え、しなることなく大きく枝を張っている。
 五弁に別れた大きな葉陰の、ほっそりした白い莟が、かすかな風に揺らぐ。この界ではここだけでのみ生きることができる、異界の植物だった。
 異質な植物は、異なる界に住む山吹をやさしく受け入れ、幾度となく訪れている諸衣をも温かく包み込む。
「狩ったのはおん身ですか」
 山吹が、感嘆のため息を洩らす諸衣に椅子を勧める。
「いえ……茜です」
 予期せぬ名前である。
 強烈な負けず嫌いの性格が得てして暴走を引き起こすため、なるべく冷静沈着な諸衣と組ませるようにしている、紅一点の狩人(かりびと)だ。追跡となると狩人のなかでも群をぬいているが、捕縛能力はさして強くはない、はずなのだ。
「なるほど……」
「追い詰めるのは容易でした。力も大したことはない。食い意地のはったアヤカシにすぎません」
「ほかには?」
 諸衣が首を横に振る。
「なにも……。見事になにも、なさすぎるのです」
 諸衣の表情には、困惑がこびりついている。
「はっきり言って小者です。『破翔廊』を抜け出せるようなアヤカシではない。にも関わらず、やつは形跡を消し、我らの追跡から逃れた」
 己れの言葉を確かめるように口にして、諸衣は視線で山吹の同意を確認する。
「犠牲者が出たときも申しましたが、襲い方が不自然極まる。わざわざ人目につく場所に死体を移動し、さらにあの花を……。もう一体いると考えるのが普通でしょう」
「だが、気配はない」
「犠牲者と同化したとき、隊長はもう一体を見たのではありませんか?」
「……おん身は?」
 諸衣は黙って首を横に振った。
 二人の間に重苦しい沈黙が落ちる。
 捕獲したアヤカシはこれで二体。どちらも飢えた小者にすぎぬ。
「ご苦労だった。今夜の監視は替わります。休んでください」  
 会話を打ち切ろうとした山吹に、不満と不審の目を向け、諸衣が強い抗議の声を上げる。
「そして独りで抱え込むつもりですか? このアヤカシが尋常ではないことはご自身も分かっているはずだ。貴族が絡んでいるのではありませんか? そう考えればすべて納得できる。それを――!」
「貴族訪問の通達はない」
「誤魔化すつもりですか」
 視線が絡み合う。互いの瞳のなかに、相手の瞳が揺れている。
「……申し訳ありません」
 諸衣は皺深い顔に、なんともいえない痛ましげな表情をのせた。
 閉ざされた自分よりも、黙って抗議を受け入れねばならない彼の方が、より深く傷ついたのだ。
「いや。……だが今はなにも言えない。正式な訪問者の連絡もないが、確証もない」
「ということは、我らの行動にも制約はない。そういうことですね」
 追跡は続ける――言外を含んだ諸衣に、はじめて青年の顔が、苦笑にゆがんだ。
「制約はできんが、充分に気をつけてください」
「気をつけるのはおん身の方です。約束してください。けっして無茶はしないと」
「分かった」
 短い即答に、諸衣はじっと探るように浅黒く精悍な顔を見つめていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「無茶をなされるなといったところで無駄でしょうがとにかく、気をつけてください」
「約束する」
「……では失礼します」
「ほかの狩人たちにも慎重に行動するように伝えてほしい」
「伝えます」
 山吹が小さくうなずくのを見てから、軽く一礼して、諸衣は部屋を出て行った。
 これから諸衣は、アヤカシのかすかな形跡を求めて、京師中を探すに違いない。なにも分からぬままに、茜も駆けずりまわることになろう。
 だが、樹音(むらね)を見つけることはできない。
 山吹と対峙してすら、異界を感じさせなかった相手だ。発見があるとすれば、少年が仕掛けた罠に呼び寄せられた場合だ――辰巳のように。
 樹音が呼べば、自分には分かるだろう。山吹の確信は祈りにも似ていた。
 胸から腹にかけての鈍い痛みは続いている。辰巳と同化したときの痕跡だ。
 ふと、甘やかな香気が鼻孔をくすぐった。
 異形の植物が莟を開きはじめていた。白絹の光沢をもつ百合に似た花弁が開ききると、内側に隠されていたもう一つの花弁がほころび、香りを強く漂わせる。
 山吹は手近に揺れる葉を、一枚ちぎって握り締めた。
「おまえたち、慰めてくれるのか」
 こぼれた弱気な独り言が、唇の片端に笑みを刻み、すぐに消えた。
 植物の生気が身体に染み込む感覚に、山吹は静かに目を閉じる。
 樹音が指摘した、山吹が生きていくために必要なもの。
 それこそが、異界植物の生気だった。
 それゆえ、山吹はこの土地に拘束されている。
 捨てたものと得たもの――どちらがより良い選択だったのか。
 だが、異界と対峙する己れの立場を、山吹自身が選んだのだ。

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<2>

 春風が桂月宮で宿直についていた山吹のもとに足を運んだのは、夜明け前のことである。
 門まで出迎えた山吹に、春風は馬上から軽く片手を上げ、
「どうもそなたとは、ろくでもない刻に会ってばかりいるな」
 間のびした調子で声を上げた。
 外はまだ暗い。が、目をこらせば、うっすら物の形が判別できるほどにはなっていた。
 春風の馬の後ろには、荷車を引いた馬と、供回りの二騎が続いている。その一騎は里見だろう。
 馬をおりた春風の髪を暁闇の冷えた風が乱していた。極上の笑みを浮かべ、青味をおびた黒馬の前にたたずむ春風は一枚の画幅のようにさえ見える。
 山吹が差しのべた手を、少し皮肉な顔で受けた春風は、供回りに簡潔な指示を出した。
「荷車を中へ。供待ちはいらぬ」
「それは困ります。春風さまをおひとりにするわけにはまいりません」
 昨日山吹にやり込められた分を取り戻さねば損だといわんばかりに、声をわざとらしくはりあげる。
「里見、私の言葉が聞こえなかったか」
 茫洋たる雰囲気はそのままに、冷ややかな声が通りすぎた。
 里見の顔が真っ赤になる。
「火急の内議だ。今日の予定を他日に振り分ける手配もあろう。私は山吹に送ってもらう」
 あっさりと向けられた後ろ姿に、里見はぐっと唇を噛み締めて一礼をした。春風はそのまま振り返りもせず、山吹をともなって中に入っていく。
 桂月宮に敵対するものに下す春風の冷徹な処断は、里見も知らぬわけではない。それでも青年に対する敬慕や畏怖する気持ちは変わらない。
  穏やかな笑みに引き寄せられ、その笑みが向けられる対象に、なんともいえない感情を抱いてしまう。
 山吹の瞳に浮かぶやさしさに触れ、納得はしている。嫉みややっかみで太刀打ちできる関係ではないことは、だれの目にも明らかな男たちの姿だった。
 もっとも当の青年たちにとっては他人の思惑など、知ったことではないのだが。
 荷車からおろされた木箱が、宮の地階に運ばれていく。
「中身はもぐりの人買いだ。拐かした子供を淫売宿に売り飛ばす外道にすぎぬ」
 木箱を見送る山吹の方をちらりとうかがいながら、春風が漠然とした説明をする。
 山吹は首をかしげた。
「ろくでもない時間に、最高神官自らが足を運ぶ理由にしては動機が弱いな……」
 むろん嫌味である。春風の目にいたずらっぽい輝きが宿り、表情が、ふいに悪童のそれに変化する。
「愛しいおまえに会いたくなったから」
「なにを――」
 くだらぬことを、と言いさして山吹は言葉を飲み込んだ。
 さっきまで茫洋とした空気をまとっていた春風が、今は、戯言を吐きながらも鋭い大人の顔をしている。
 二人は顔を見合わせ、どちらともなく木箱の消えたあとに続いた。


 ひんやりと湿った空気が全身を包んだ。
 薄暗い地階の住人は、異界に食われた者たちである。運よく憑依していたアヤカシが離れたとしても、回復不能なまでに人格は崩壊してしまう。飢えだけに支配された余命を、封印されたこの場ですごすのだ。
 異界の存在を公にできぬ以上、仕方のない処置であった。
 寝台の上には土気色に干涸びた人間が、虚ろな表情で横たわっている。
 なにを見ているのか、あるいはなにも見えていないのか、落ち着かぬ血走った目。だらしなく開いた唇が涎を垂らしながら荒い息を吐く。
 薄い頭髪はざんばらに乱れて、消耗しきった身体には指一本動かす力すら残っていないようだ。
「年は四十半ば。五年ほど前に流れてきて外京を根城にしている」
「俺にはその倍は歳を食っているように見えるが」
「検非違使庁にこやつの記録があった。身体的特徴は一致している」
 静かな動作で掛け布をはがし、山吹はその醜悪さに眉をひそめた。
 肉がこそげ落ち、かさかさに乾いた全身のなかで、男の衝動だけは異界の快楽を求め、生々しく起立し、濡れ続けているのだ。
「ここまで食われていればおまえにも分かるだろう」
「まさか……」
「精気喰いだ」
 春風の口元に、なんとも苦い微笑の形が浮かんだ。皮肉も自嘲もとっくの昔に通りこした、他人事のような言い方だった。
 山吹が短く息を飲む。
 精気とは万物の生命の源泉であり、根源的に支える無形の物質である。
 それを己れの糧とする異形のもの。
 異界のなかでも限られたものだけが持つ、忌まわしい力。
 だが、それを目のあたりにするのははじめてだった。
 界を越え、あまつさえ自身ばかりでなく囮の形跡まで消し、人の精気を糧とする力を持つとなれば――。 
「貴族と同等か、それ以上……」
「狩人たちには私の名で探索中止命令をだした」
 狩人を守る処置だ。最高神官による命令では諸衣たちも従わざるを得ない。貴族並みの力を持つものに、狩人はほとんど無力だ。
 春風の迅速な処置に、山吹は黙って頭を下げる。
「やつの仕業だと思うか?」
「これ以上アヤカシを増やすのはごめんだからな」
 山吹の片頬に、ため息まじりの苦笑が浮かぶ。
「それもそうだ」
 どこか醒めた笑みを刷いた春風の目が、冷たく光る。
「となると、問題となるのは皇子だな」
 朝食の席にまで少年を置いていたとなれば、疑いをもって当然だろう。
「楽しい情報を提供しよう。昨日、皇子の訪問を受けた」
「訪問?」
「正確には押しかけられたのだが。それだけでも粋狂を通りこしている。あげくに大騒ぎをしていった」
「おまえの前でか?」
「まさか。あの皇子にそんな度胸があると思うか」
「ふん……」
「神官をつかまえて『破翔廊(はじょうろう)』はどこだと、片っ端から詰問していた」
「馬鹿かっ。異界は極秘事項だと知らぬわけでもなかろう」
「誰にも答えられぬさ。表にいる下級神官はただの象徴だと思っているからな。あげくに、なぜ宮の最高位にいるのが私でなければいけないのだと絡んでいたそうだ。
結局はあきらめて帰ったが」
「めでたきご仁としか言いようがないな」
 山吹があきれ顔でため息をつく。
 皇子が異界に並々ならぬ興味を持っていることは、夜宴の席でいやというほど知らされている。もっともその興味は淫楽にのみ集中していたようだが。
「異界を餌にそそのかされたか」
「皇子が喰われているとなると厄介だな」
「本人に会ったんだろう。分からなかったのか?」
「無理を言うな」
 口元がふわりとほころんだが、春風の目は笑っていない。
 この人買いほど喰われていればともかく、少し喰われただけでは外観に変化はでない。
「しかし、皇子を抱き込んでなにをしようとしているのだか」
 己れに問うように、春風が呟く。
「……探ってみるか」
「止めはしないが。私が触れたかぎりでは期待せぬほうがよい」
 精気を喰いつくされた人買いを、嫌悪もあらわに睨(ね)めつけ、春風は素っ気ない口調で応じた。
 彼が感情をここまであらわにするのは稀なことだった。よほど見たくないものを見せられたのか。
「分かった。おまえは部屋で待っていてくれ」
 自分の執務室の鍵を差出した山吹をちらりと見やり、
「ほどほどにしておけよ」
 春風は軽く肩をすくめ、受け取った。
 まだ息のある犠牲者に触れた場合、かなり詳細な情報を得られる。樹音のかすかな痕跡をも、山吹は見逃したくなかった。


 ――仰向けになった男の上に少年が乗っている。
 愉悦に溺れ、よだれを垂らして喘ぐ男には、確かにこの老人の面影が重なる。
 男は、ほっそりとしなやかな少年の身体に翻弄されていた。すでに起き上がる力も残されていない。それでも男の衝動はつきることなく、少年の動きに合わせ、夢中で腰を振っている。
 醜悪な情景のなかで、樹音は、妖しく幽艶でさえあった。
 あどけなさが残る典雅な面をほのかな桜色に染め、甘やかな吐息で悦楽を誘う。
 血と肉の淫靡な感触が、匂いさえともなって、山吹を包み込む。
 現実ではない。
 他人の感覚にすぎぬ。
 分かってはいても、その感触は鮮やかだ。
 本能的に山吹の肉体は激しく拒絶する。取り込まれてしまえば、いつ果てることもなき淫靡な官能が待ち構えている。
 自我が崩壊していく恐怖――それゆえの拒絶だ。
 精を受けながら精気を喰う異界のもの。
 春風が背負わねばならなかった業と酷似していたが、その手段はあまりにも淫猥だった。
 ただれた交情を見せつけられながら、樹音の思考を探っていく。
 冴えた快楽。
 幻惑を誘う、甘く饐えた香り。華やかに咲き誇る深紅の椿。
 恐怖と激痛にのたうつ辰巳の顔――。
 アヤカシをけしかけた少年は、確かに辰巳の感情をを楽しんでいる。
 一瞬、山吹の双眸にかっ炎が宿る。
 彼の身の内から発せられた激情が伝わったのだろうか。邪淫にとらわれ、精気を搾り取られた男が苦しげに呻く。しかしそれもわずかの間だ。すぐに男は淫夢に引き寄せられてしまう。

 唐突に、脳裏で繰り広げられる映像の少年が、魔性の笑みを山吹に向けた。
 男に突き上げられ、愉悦に喘ぎながら、しっとりと濡れた黒瞳が確かに山吹を見つめている。
 異界の魔性を突きつけ、山吹になにを望むのか。
 華奢な肢体がひときわ大きく仰け反り、甘美な表情を作る。
 突如、山吹は少年の感触を共有している己れに気づいた。
 精神になだれ込んでくる濃密な恍惚感。
 あらがいがたい官能。
 取り込まれまいとする意識が激しくぶつかり合う。
 全神経をむけて、それをねじ伏せた――瞬間。
 ふいに、樹音の心が投げ出された。不安と、蜘蛛の糸のような細い一縷の希望とが入り交じった、せつない感情。
 それと交錯する、乳兄弟の放つ、指標のごときかすかな光。
 山吹はすべてを振り払うように、探索から手を引いた。

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<3>

「どうだ。なにか見つかったか?」
 憮然とした表情で執務室に帰ってきた山吹に、のどかな声がかかる。
「いや……あの男の頭には快楽を貪ることしか残っていない」
 苦虫を噛み潰した顔で吐き捨てると、一番座り心地のよい椅子を占拠した春風が肩をすくめてみせる。その、どこか本気ではない乳兄弟の様子に、山吹は大きく嘆息する。
「……おまえ、知っていたな」
「だからそう言ったではないか。私はちゃんと忠告したはずだが」
「面白がっていただけだろうがっ」
「人聞きの悪い。心配していたんだぞ」
 刺すような視線をさらりと受け流し、春風は意味ありげに笑いかけた。
「それで、感じたか?」
「充分堪能した」
「もったいないことをしたかな。おまえに手を出す絶好の機会だったのに。しかし樹音におまえをやるわけにもいかぬととなれば、私のほうが分が悪い。どうしても理性が邪魔をする……無念だ」
 ここまでのんびり語られると、拍子抜けするもはなはだしい。 
「勝手に言ってろ」
 思いきり睨みつけ、執務室にあるもうひとつの扉へ向かう。そこは山吹と春風しか存在を知らない、彼の私室である。
 さして広くはないが、雑多な植物が壁から芽吹き、淡い芳香が山吹を包む。すべてが異界植物だった。やさしい緑の風が、隠された部屋の閉塞感を消し去っている。
 いくつもの小壷から薬草や花の莟やらを急須のなかに摘み入れ、手早く茶を入れる。
 部屋には最低限の生活必需品が揃っていた。下京に構えている家に帰宅できるのは、月のうち半分にも満たない必然からだ。
 座卓に置かれた春風の椀から、清涼感のある柑橘系の香りが立つ。
「酒でも飲みたいところだが」
「酒の匂いをさせたおまえを送っていくわけにもいくまい」
 憮然と言う山吹の前で、素直さからほど遠い性格の乳兄弟が笑い声をあげた。
「噛みつく理由ができて里見が喜ぶだろうな」
 屈託のない笑顔に苦笑を返す。湯気をあげる椀をとって、二人は香りを楽しむように飲んだ。疲れが残る身体に、熱い茶がゆったりとしみていく。
 たゆたう静寂――。
 空になったところで春風が椀を座卓にもどす。
「おまえは樹音に集中しろ」
 山吹がぶつかったのは煙(けぶ)るような眼差しだった。
「皇子のほうは私が引き受ける」
「しかし……」
「やつを狩ることができるのはおまえだけだ」
 貴族と同等かそれ以上の力を持つものを追跡できるのは山吹だけだと、真実をさらりと指摘する。
 瓔珞荘でのことを、春風には簡単にしか話していない。
 樹音の囁きは恋慕の情にも似ていた。
 私とまいりませんか――。
 むろん、それに応えるつもりは毛頭なかったが、春風に余計な気遣いをさせたくなかった。
 だが皇子を春風にまかせてしまってよいものか。皇子が喰われていた場合、彼の取る手段はひとつしかない。
「樹音の狙いがどこにあるのかは分からぬ。
 だが、おそらく我々の力を知っている。
 その上であの男を私に寄越したのだ。なかなか冗談のきついやつだな」
「春風……」
 春風の瞳はますます煙って、感情を隠してしまう。だがどこか緊迫感のない乳兄弟の口調のなかに、自嘲が感じられた。
「おれ達は異界から帰ってきた。それでよい」
 山吹のぶっきらぼうな声が、それ以上の春風の言葉をさえぎる。
 望んで得たものではなかったが、春風と山吹が得た力は、ある意味で対極をなしている。

 深く宿した闇と、それを癒す力――。

「……そうだったな」
 他人事のようにうなずき、春風は微笑んだ。透き通るような、静かな悲しみを含んだ微笑みだった。
 異界の力を宿すのは山吹も同じであったが、春風の背負うその力は樹音にこそ一番近い。 『人であること』を犠牲にして成り立っている。
 春風は常界にあっても異界にあっても、半ばずつ血をひいている。それだけでも充分異端だが、強大なアヤカシの気をもそそぎこまれた異種だ。
 人に紛れ、人になったつもりでも――。
 人にはなりきれず、人以外のものになるには人の心を持ちすぎている。
 抑えようもなく、身の内の異界の血が疼くたびに、彼はどこの世界にも完全には属していない己れを、いやというほど思い知る。
 それを知る山吹だからこそ、その力を使わせたくない。
 眉をひそめた山吹の心情を断ち切るように、
「皇子には私が引導をわたす」
 きっぱりと言い切る春風の煙るような眼差しの奥から、鋭い眼光がきらめいた。
 玲瓏な面だちに変わりはない。だが凄絶なばかりの鬼気を感じるのは、双眸が深紅の輝きを帯びて異様に底光りしていたからである。
 山吹は黙ってうなずいた。
 若き最高神官の瞳に映るその色を、山吹は何回か見ている。
 茫洋たる空気はすっかり払拭され、深奥に脈打つ闇色の血が強く意識される。
 人であることをこだわる春風が、異界に近づく瞬間だった。
 瘴気、というほどのものではないが、彼が発する気は人のものではありえない重苦しい冷気が含まれている。
 深紅の光の中に、わずかに明るい輝きが瞬いていることだけが、
唯一の救いのように思われた。
 つと、春風の繊手が山吹の手を掴む。無言のうながしを感じて、山吹は腰を上げて座卓をまわる。
 その首筋を、白い指がやんわりと引き寄せる。
 紅いの光彩がすべての感情を消し去り、山吹を見据える。
 普通の人の身ならば、絶望とよんでいい深い闇だ。
「感じるか?」
 触れんばかりに近づいた唇が、吐息のように囁いた。
 沈みゆくような目眩に山吹が目を閉じる。
 目蓋の裏に、淡い燐光が映る。
 現界で山吹だけが耐えられる白い指先から、なにかが確実に、甘やかに流れていく。
 甘美な喪失感に、本能が慄く。
「……やめろ」
 山吹が喘いだ。
 あっさりと応じて、春風はひそりと嗤った。
「すまぬ」
「ああ……分かっている」
 やわらかい眼差しを受け、春風は目を閉じてひとつ息を継いだ。
「まだ決まったわけではない。見極めたうえで断を下すことだ」
 突放すような言葉に山吹は束の間沈黙した。春風に気遣わせな眼差しを向ける。
 それをかわすようにすっと立ち上がって、春風はなんとも扇情的な笑みを返した。
「やつがどうやって生気を喰らうのか分かっただろう」
 唐突な問い掛けを、山吹は怪訝な顔で受けとめる。
「あの坊やは情交で喰らう」
「……触れるだけでよい誰かさんとはえらい違いだな」
 山吹は、茫洋たる雰囲気を取り戻してた春風の目を覗き込み、皮肉というにはあまりにも苦い言葉を投げた。
 瞳のなかに人の悪い悪戯を思いついたらしい光がふくまれていたからだ。
「一度試してみるか?」
 と、素早く山吹の腕を引き寄せる。
 山吹の腰に添えられた手に意外な力が込められた。
 ふいをつかれ、わずかに均衡を崩した山吹の身体は、春風の両腕のなかにあっさりと捕らえられてしまった。抵抗すると、春風は意地になって抱きすくめようとする。それをいやというほど承知している山吹は、最初から諦めて空を仰いで嘆息した。
「戯言(ざれごと)もすぎると痛い目に合うぞ」
 さらり、と髪が首筋をなぞる。
「戯言ではない、と言ったら?」
「殺してほしいのか?」
「それでは話が違う、痛い目以上ではないか」
 樹音の行為が、己れの血をことさら意識させたのかもしれない。
 わずかに触れ合った部分から、人であることに強く拘泥する春風の想いが届けられる。
「俺にとっておまえは乳兄弟の春風だ」
 たとえアヤカシと化そうとも――。
「それ以外の何者でもない」
 くすりと笑う気配がした。わずかに春風の肩がゆるむのを、山吹は見逃さなかった。
「戻るか」
 春風はなにごともなかった顔で、腕を解いた。


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