月待ち
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「昂雪(あきらゆき)皇子がご到着されました」 小姓の言葉に春風は書類から目を上げ、めったに見られぬ怪訝な顔を見せた。 「約束があっただろうか」 「いえ。……早朝使者がまいりました際、忙しいとお断わりしたのですが……」 里見は遠慮がちにではあるが、皇子に対する不満を口にした。 「実力行使に出たか」 「お断わりしますか」 すずやかな両眼にだけ苦笑の色が浮かんで、すぐに消える。 「そういうわけにもいくまい」 「でも不作法は先方様です」 言外に、継承一位とはいえ皇子より最高神官のほうが身分が上だと言う里見に、春風は皮肉っぽく笑いかけた。 「仮にも従兄殿だからな。顔くらい見せねばなるまい」 皇子ら一行をしばらく待たせて、執務室の奥の私室に通り、衣服をととのえた里見が丁寧に髪梳きなおし、一つにまとめる。 「なんのご用でしょう」 「会えば分かる」 さらりと立ち上がった春風は、完璧な笑みを浮かべていた。
昴雪皇子の前にあらわれた春風は、彼の記憶にある茫洋たる空気ではなく、堂々と落ち着いた風格を漂わせていた。 白晢の肌に、目見はあくまですずやかで澄んでいる。すんなりとした長身に格式ある神官の官衣をさらりと自然にまとい、それでいて威圧感と信頼感を同時にあたえる。 それから逃れるように、皇子は来賓用の部屋を見渡した。 「見事な調度だな。内裏のお住まいより立派ではないのか?」 「ここは私個人の城ではございませんゆえ」 皇子の嫌味にそれ以上の辛辣さで応える。 藍色の硝子をはめ込んだ高窓から降り注ぐ光が、幻想的で清浄な雰囲気を醸し出し、滑らかな絹の絨毯の上には、優美な曲線を描いた椅子が並んでいる。 部屋の装飾品のすべてを金に換算しようとする貪欲な眼差しに、春風は軽く苦笑をもらした。 「心ある方々の寄進の品々でございますが……。よろしければお気にめした物をお持ち帰りください」 とたんに皇子の目がらんと輝く。 「よいのか? この座卓も見事だし、あの壷もなかなかのものだ」 「昴雪殿のお目にかなったとなれば、方々も光栄でございましょう」 恥じることなく熱心に値踏みする男に、うんざりした顔は見せず、 「それで、突然のご訪問はなにごとです?」 やわらかな口調にはいささかながら嫌悪がふくまれていたが、相手はまったく気にならないらしい。 「そうだった。忘れておった。内裏からの親書が届いたのでな」 上着の隠しを探り、書状を差し出す。 「わざわざご足労願わなくとも、こちらから伺いましたものを」 「いや、よいのだ。桂月宮を見せてもらうよい機会だと思ってな」 「これは急なお申し出ですね」 「なにかまずいことでもあるのか?」 「いえ。……私はちょっと都合がつきませんので、ほかの者のご案内でよろしいですか」 「それは残念だな。まぁよいわ」 横柄に頷く皇子の脂ぎった顔に浮かんだ好色な色を見ないようにして、春風は扉の外に控えている小姓をよばった。 「皇子殿をご案内してくれ」 春風の命に短い返事をすると、里見は踵を返した。 「どこへ行ったのだ」 「係の者を呼びに。すぐにまいります」 皇子は刻を待たずして、里見が伴って戻ってきた若い神官に引き会わされた。 「この者がご案内いたします」 春風の言葉に、神官が一歩前に出て一礼する。色白の肌に甘く整った面立ちの神官に、皇子は満足げな笑みを浮かべた。 「それではまいろう」 神官に案内されて――というよりは、急き立てて来賓室から出て行った。 「あれには気の毒だが……気がきくな」 皇子の趣味に添う人選に苦笑混じりの声をかけると、里見は真っ赤になって俯いた。 「まぁ神殿のなかで押し倒されることもなかろう」 「いくらなんでも、そこまでなさいませんでしょう?」 上目遣いで主人を見上げる里見の上気した頬には、思春期の潔癖さがあらわれている。 「どうだかな」 「もうひとりお付けするように伝えてきますっ」 返事も待たずに小走りにいく小柄な後ろ姿を苦笑混じりに見送ってから、春風は座卓を振り向いた。 内裏の親書が収められた封書は、自分の後継者によってぞんざいに扱われ、少し歪んでいた。
桂月宮の中央部にある『破翔廊』をゆるやかな曲線で取り囲んだ回廊を、山吹はゆっくりとした足取りで歩いた。 ここを己れの戦場と決意したのは、遠い日だ。 選択の余地がなかったわけではない。普通の暮らしを望む方法もあった。 だが――。 過去を懐かしむほど生に倦んでいるのではなく、感傷に浸れる身分でもないことに気づき、山吹は皮肉に唇を歪めた。 やがて自分の執務室の前で止まり、隠しから鍵を取り出し、ふとその手を止める。 背後の気配に振り向くと、ひそりと近づいてきた諸衣が厳つい顔に憂いを浮かべて目礼をした。 「もうよろしいのですか」 「面倒をかけた」 「アヤカシを捕縛しました」 「……中で話そう」 山吹が自室の鍵を解き、諸衣を招き入れる。 一歩、足を踏み入れたとたん、植物の生気が身体を押し包む。清涼な空気が肌を刺し、五臓六腑に沁みわたる。 機能的ではあるが殺風景な山吹の執務室に、唯一彩りをそえているのが、大人の身の丈二つ分ほどもある天井まで、いっぱいに葉を茂らせた樹木だ。華奢な幹は根元でも赤子の腕ほどしかない。土を入れているわけでもない床に生え、しなることなく大きく枝を張っている。 五弁に別れた大きな葉陰の、ほっそりした白い莟が、かすかな風に揺らぐ。この界ではここだけでのみ生きることができる、異界の植物だった。 異質な植物は、異なる界に住む山吹をやさしく受け入れ、幾度となく訪れている諸衣をも温かく包み込む。 「狩ったのはおん身ですか」 山吹が、感嘆のため息を洩らす諸衣に椅子を勧める。 「いえ……茜です」 予期せぬ名前である。 強烈な負けず嫌いの性格が得てして暴走を引き起こすため、なるべく冷静沈着な諸衣と組ませるようにしている、紅一点の狩人(かりびと)だ。追跡となると狩人のなかでも群をぬいているが、捕縛能力はさして強くはない、はずなのだ。 「なるほど……」 「追い詰めるのは容易でした。力も大したことはない。食い意地のはったアヤカシにすぎません」 「ほかには?」 諸衣が首を横に振る。 「なにも……。見事になにも、なさすぎるのです」 諸衣の表情には、困惑がこびりついている。
「はっきり言って小者です。『破翔廊』を抜け出せるようなアヤカシではない。にも関わらず、やつは形跡を消し、我らの追跡から逃れた」 己れの言葉を確かめるように口にして、諸衣は視線で山吹の同意を確認する。 「犠牲者が出たときも申しましたが、襲い方が不自然極まる。わざわざ人目につく場所に死体を移動し、さらにあの花を……。もう一体いると考えるのが普通でしょう」 「だが、気配はない」 「犠牲者と同化したとき、隊長はもう一体を見たのではありませんか?」 「……おん身は?」 諸衣は黙って首を横に振った。 二人の間に重苦しい沈黙が落ちる。 捕獲したアヤカシはこれで二体。どちらも飢えた小者にすぎぬ。 「ご苦労だった。今夜の監視は替わります。休んでください」 会話を打ち切ろうとした山吹に、不満と不審の目を向け、諸衣が強い抗議の声を上げる。 「そして独りで抱え込むつもりですか? このアヤカシが尋常ではないことはご自身も分かっているはずだ。貴族が絡んでいるのではありませんか? そう考えればすべて納得できる。それを――!」 「貴族訪問の通達はない」 「誤魔化すつもりですか」 視線が絡み合う。互いの瞳のなかに、相手の瞳が揺れている。 「……申し訳ありません」 諸衣は皺深い顔に、なんともいえない痛ましげな表情をのせた。 閉ざされた自分よりも、黙って抗議を受け入れねばならない彼の方が、より深く傷ついたのだ。 「いや。……だが今はなにも言えない。正式な訪問者の連絡もないが、確証もない」 「ということは、我らの行動にも制約はない。そういうことですね」 追跡は続ける――言外を含んだ諸衣に、はじめて青年の顔が、苦笑にゆがんだ。 「制約はできんが、充分に気をつけてください」 「気をつけるのはおん身の方です。約束してください。けっして無茶はしないと」 「分かった」 短い即答に、諸衣はじっと探るように浅黒く精悍な顔を見つめていたが、やがて諦めたように息を吐いた。 「無茶をなされるなといったところで無駄でしょうがとにかく、気をつけてください」 「約束する」 「……では失礼します」 「ほかの狩人たちにも慎重に行動するように伝えてほしい」 「伝えます」 山吹が小さくうなずくのを見てから、軽く一礼して、諸衣は部屋を出て行った。 これから諸衣は、アヤカシのかすかな形跡を求めて、京師中を探すに違いない。なにも分からぬままに、茜も駆けずりまわることになろう。 だが、樹音(むらね)を見つけることはできない。 山吹と対峙してすら、異界を感じさせなかった相手だ。発見があるとすれば、少年が仕掛けた罠に呼び寄せられた場合だ――辰巳のように。 樹音が呼べば、自分には分かるだろう。山吹の確信は祈りにも似ていた。 胸から腹にかけての鈍い痛みは続いている。辰巳と同化したときの痕跡だ。 ふと、甘やかな香気が鼻孔をくすぐった。 異形の植物が莟を開きはじめていた。白絹の光沢をもつ百合に似た花弁が開ききると、内側に隠されていたもう一つの花弁がほころび、香りを強く漂わせる。 山吹は手近に揺れる葉を、一枚ちぎって握り締めた。 「おまえたち、慰めてくれるのか」 こぼれた弱気な独り言が、唇の片端に笑みを刻み、すぐに消えた。 植物の生気が身体に染み込む感覚に、山吹は静かに目を閉じる。 樹音が指摘した、山吹が生きていくために必要なもの。 それこそが、異界植物の生気だった。 それゆえ、山吹はこの土地に拘束されている。 捨てたものと得たもの――どちらがより良い選択だったのか。 だが、異界と対峙する己れの立場を、山吹自身が選んだのだ。
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