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太陽の西 月の東


寝待月

<1>  <2> 


<1>

 山吹が桂月宮の地下にある死体安置所に着いたとき、すでに辰巳の遺体が安置されていた。
 狩人の諸衣(もろい)が所在なさげに書類を眺めていたが、山吹の姿を認めると、立ち上がって軽く頭を下げる。
 桂月宮の機密に関わる遺体が運び込まれた緊張感が、四十半ばの実直そうな狩人の顔にも顕れていた。
「死因は腹部破裂による失血死です」
 諸衣の感情を殺した声が、死体の前で立ち尽くす山吹の背に飛んできた。
「生きたまま腹を裂かれ、臓物を引きずり出されています。心臓、肝臓が欠損。凶器は――」
 声に促されるように、山吹は板張の台に横たわる遺体から、白布を剥いだ。
「もういい。大体の状況は分かった」
 凶器は、手だ。
 下等なアヤカシほど、獣同様に道具など使わない。本能が求めるままに、指で突き破り、手で引き裂いて、腹腔を探る。好物の臓物を喰らうためだ。
 空ろな腹腔に目を凝らしていた山吹に、諸衣がためらいがちに声をかけた。
「一つ、よろしいでしょうか」
「うん?」
 肩ごしに投げられた視線の険しさに、諸衣は一瞬たじろぎ、思いなおしたように口を開いた。
「隊長もお気づきでしょう。これをやったアヤカシは矛盾だらけだ。飢餓に憑かれたように喰らうだけの下等な奴が、腹に花を突っ込んで死人(しびと)を辱め、
 わざわざ人の目に触れるところに放置する……意味がある所業とは思えませぬ。思えませぬが――」
 疑問を口に上らせる声が、妙に乾いて硬い。だが諸衣は穏やかな顔で、山吹を見つめる。
 一回りも年下の上司を、諸衣は抵抗もなく受け入れ、信頼を寄せている。山吹に向けるまなざしは、年の離れた弟を、頼もしく見つめる兄のようである。
 しかし山吹から返ってきたものは、ただ長い沈黙だった。
 諸衣の問いかける視線を感じながら、手のひらで冷たく冷えた辰巳の額に触れる。
「接触で、分かりますか?」
 静かに笑いかけ、山吹は重い口を開いた。
「いや……刻が経ちすぎている。同化せねば確定はできん」
 言葉を短く切り、きゅっと唇をゆがめた。
 暗く翳った目で一瞥されて、諸衣はそれ以上の詮索を諦める。さほど私的なつきあいがあるわけではないが、この青年がこういう表情を見せたとき、何を言っても無駄であるとこを諸衣は知っていた。
 山吹の顔には、隠しようのない疲れが滲んでいる。
「補助を頼む」
「……くれぐれも気をつけてください。共鳴しすぎては厄介なことになります」
 休息をとるべきだ――その言葉を呑み込んで、諸衣は軽く笑みを返した。
 狩人の中でも、同化できるのは山吹だけだ。京師にまぎれこんだアヤカシに、いつまでも物見遊山を許しておくわけにはいかないのも、本音だった。
「それほどヤワではないつもりだ」
 辰巳を見つめる山吹の光彩が、徐々に変化していく。躍動する黒瞳から、冷ややかな虚無を映す血の色へ。
 異形を具現したかのごとき変貌だった。
 全身から感覚が失われるにつれ、意識の根底に力が凝結し、一呼吸ごとに、その塊が脈打ち始める。
 辰巳の残留思念を探り出し、触れる。
 最初に襲ってきたのは、恐怖の感情だった。
 死を目前とした、本能的な恐怖と嫌悪が突き上げてくる。
 アヤカシの指が腹を突き破る瞬間、山吹は意識的にその回路を閉ざす。共鳴状態にある思念は自身の肉体まで影響するのだ。
 辰巳の思念は、すでに瓦解が進んでいる。生きながら血を啜られ、肉を噛み砕かれるのを、鈍い痛みとして山吹は己れの身のうちに感じる。
 舌舐めずりするような愉悦に歪んだ顔――アヤカシに憑依され、人の意識をも喰いつくされた男だ。

――もっと深く。
 断片的な記憶を、丹念に拾い集める。
 辰巳を知り、死に様を見届けることが、唯一山吹に残された贖罪だった。
 一つ一つ重ねられた記憶、思考が、生の証しだ。
 笑いさざめく、いくつもの顔、顔。母堂らしき、おっとりと笑みを刻んだ中年の女性。失った故郷への思い。
 重たげに震える深紅の椿。
 玲瓏たる炎が宿る、底の知れない暗さを映した瞳。
 濃密な香り――。
 ふいに、辰巳の記憶が、山吹自身を映し出す。
 いつの日か酌み交わそうと、約束とも言えぬ約束を交わした男だ。彼を死にいたらしめた、苦い悔恨が胸をよぎる。
 その瞬間。
 山吹は深く、辰巳の思念と共鳴してしまった。
 刹那、空気がかっと白熱した。
 山吹の精神が、一気に、辰巳の死に引き寄せられていく。
 白い闇の中から、己れを呼ぶ声が聞こえたと思ったのは、錯乱した意識によるものだろうか。
 山吹は最後の意識を手放し、白い闇の中をどこまでも落下していった。


 感覚はまず、聴覚から戻ってきた。
「――馬鹿者」
 聞きなれた、だが押し殺した声が山吹の耳朶をしたたかに叩いた。
「自分がやったことが分かっているのか。死ぬところだったのだぞ!」
 己れが伏床に横たわっているのに、山吹は気づいた。あたりが暗く、視力の回復はさらに遅れたが、やがて目の前の乳兄弟の蒼白な顔をはっきりと捉える。
 いつもの余裕に満ちた笑みはなく、山吹を見つめる榛色の瞳が不安にゆらいでいる。美しい面はこわばり、生気がひいて、ますます作り物めいて見える。
 滅多に激情を現わさない春風の罵声は、不安と恐れが入り交じったせつない声だった。
「私が分かるか?」
 今の山吹には何よりもやすらぎを覚える顔と、声だった。
「……悪かった」
 起き上がろうとする山吹の肩口を、そっけなく押し戻して、春風は怒りもあらわに制した。
「まだ無理だ。すでに諸衣たちがやつを追っている。少し休め」
「大丈夫だ……やつを確認したのは俺だ。諸衣は見ていない」
「いや、補助していて見たらしいぞ。諸衣は引きずられたと言っていたが、そなたがかなりまいっているようで気遣っていたのだろう。そなたの意識の間近で待機していたのだろう。……まったく、無茶をしてくれる」
 ようやく落ち着きを取り戻したのか、春風の面に、わずかながら表情が戻ってきた。
「難儀な上使を持つと苦労だな」
 と、下手な冗談までつけくわえる。
「……アヤカシは、二体いる」
「ほう……」
「臓物を食ったのはやつではない」
「……諸衣がどちらを見たのか、あるいは両方見たのかまでは聞いていない。とにかく、休め。命令だ」
 山吹が苦笑混じりに納得の色を見せたのは、春風の心根を感じとったからだろう。
 実際、身体中が悲鳴をあげていた。呼吸をするたびに胸部に鈍い疼痛がはしる。
 無意識のうちに衾の襟元をひきよせて、山吹は己れのいる場所にようやく気がついた。
 払暁前の暗さと静けさ。ぴんと張りつめた冷気は幾重にも重なった垂れ絹にさえぎられている。
 心地よく気配りのされた部屋は春風の寝室だった。
 最高神官という役職から解放される唯一の刻を過ごす私室に、宮の者をおきたくないという理由で、春風は完全に人払いをしている。
 身の回りの世話をする小姓の里見でさえ、長い渡り廊下の向こう、屋敷表の執務空間で待機する。
 宮に春風を呼び寄せるとなれば、どうしても大袈裟になる。それを見越して、隠密裡に、諸衣自らが仮死状態におちいった山吹を運びこんだのだろう。
「飲めるか?」
 春風が差し出した大振りの鉢を受け取ろうと半身を起こしかけ、山吹は腹に走った疼痛に、思わず息をつめた。
「手を貸そう」
「……己れの身ぐらい、己れで始末できる」
 心配かけまいと春風の手を振りはらった手前、意地でも一人で上体を起こさねばならず、山吹は目眩をこらえて平気なふりをするのに、ひどく苦労した。
 それを知ってか知らずか、春風は口元だけでおっとりと微笑しながら黙って見ている。
 山吹が我慢の限界を越して、額に手をあてじっと両目を閉じているのを確かめて、そっと鉢を差し出した。
「……なんだ、これは」
 茶色い液体が鉢をなみなみと満たしている。手に持つとほんのりと温かく心地よいのだが、のぼってくる湯気の臭いはかなり強烈だ。
「薬湯にきまっている。ひと思いに呑んでしまえ」
「……このにおいだぞ」
 春風がすっと目を眇める。
「ほう。そなたの身をあんじて、私が手ずから煎じたものを、飲めないと――」
 そう言われては、一言もない。
 山吹は、息を止めて、一気に薬湯を飲み干した。が、たちまち喉にからめてむせ返ってしまい、春風に背を叩いてもらう羽目となった。
「乱暴な飲み方をするからだ」
 文句を聞きながら落ち着いた頃には、山吹はぐったり牀に倒れこんでしまった。
 やおら春風の手が、山吹の衣の前をはだけ始める。
「おい……」
「見せてみろ」
 ためらう山吹を無視して、強引に身頃を開く。
 引き締まった浅黒い身体には、無駄な肉など一欠けらもついていない。だが腹部には青黒い痣が、醜く走っていた。
 辰巳の骸と同じ場所に刻まれた痣は、深い同化の証しだった。
 眉をひそめた春風の繊手が、胸から腹までをゆっくりとはいまわる。
「骨や……臓腑は傷ついていない」
 かすかな息をもらす。
 艶のある栗色の髪が、さらりと落ちた。それをうるさそうにかきあげる。その仕草が無造作なようで、優雅だった。
 常にはまとめているのが垂れ髪なのは、寝ていたところを諸衣に起こされたからだろう。
「これに効く薬はないぞ」
 ほっと明るい顔をつくづくと見て、
「……つき添っていてくれたのだな」
 身じまいをすませた山吹が、低く呟いた。
「うん?」
「いや――。心配をかけた」
 春風が軽く目を見開いて、
「なんと言った? よく聞こえぬが」
 優美な笑みを浮かべる。
 聞こえていないわけがない。たとえ聞こえていなくても、乳兄弟が何を言いだすか、春風には分かっているはずだ。
「気にするな」
 ふい、とそっぽを向いて、山吹はうそぶいた。
 笑みをふくんだ眼差しが、ぬくもりのある想いを伝えてくる。疲弊した神経がゆるりとほぐれてくる。
「眠れ」
 言われるまでもなく、瞬く間に彼は泥のような眠りにおちいった。
 規則正しい寝息を聞きながら、なんとか間に合った、という安堵が、春風の両肩に落ちてくる。
 全霊をかけて、黄泉へくだろうとする山吹を連れ戻したのだ。
 春風は壷から水をすくって喉を潤したあと、山吹に占居された伏床の横に、そのまま倒れこむ。
 じきに夜が明ける。だが、今はひたすら眠りたかった。
 春風も眠りに身をゆだねた。
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<2>


  目覚めたとき、山吹の耳にひっそりと繰り返される寝息が届いた。振り向くと、傍らの春風の寝顔と出くわした。
 深い眠りを貪っている春風に、起こそうか、とのばしかけた腕を引っ込める。その白すぎる肌や、薄青い血管が透けた目元に、疲れが透けて浮いている。
 やがて、小姓の里見が声をかけるだろう。それまでは眠らせておけばいい。
 やわらかい寝顔に幼い頃の面影を重ねながら、もう少し眠るか、と山吹は目を閉じた。


 次に目覚めたとき、山吹は独りだった。伏床から抜け出し、隣室に入ると、ちょうど春風が屋敷表から戻ってきたところだった。
 太陽は沖天にあり、開け放たれた扉を通って室内を明るく輝かせる。最高位にある者の私室にふさわしい、凝った細工が施された部屋だ。
 意匠化された花を彫刻した長椅子が造りつけられ、その上に切り取った玻璃窓は部分的に色硝子が使ってある。
 床に敷き詰められた絹の絨毯も年代物らしい光沢を放っている。それでいて上品な落ち着きを醸しだしていた。
「この極楽野郎」
 肩から長胴服を滑り落とし、きっちり合わせた胸元を少しくつろがせながら、春風が憎まれ口を送ってくる。
「私たちを働かせておいて、いい気に朝寝か」
 クスクスと笑い声をもらす。
「具合はどうだ」
「まぁ……腹がへったな」
 長椅子には座らず、その下で胡坐を組むと、情けなさそうに山吹はぼそりと言ちる。
「心配して損した気分だな。なにか用意させよう」
「いや、すぐ宮にもどる。向こうで湯づけでも食うさ」
「死にぞこないが偉そうにのたまうな。宮に着けば食事をとる刻も惜しむことになる」
 謎めいた言葉を投げつつ、春風は身軽に部屋を出ていった。
「春風、どういうことだ?」
 外廊下に控えている小姓に用件を告げ、もどってきた春風の顔を見るや、山吹はその美しい顔に噛みついた。
「あれから、なにがあった?」
 堅い顔で詰め寄る山吹の前で、春風が呆れたような声を上げる。
「そんな顔で私を睨むな。ちゃんと食事はさせてやる」
「そうではなくて!」 
「そなたが死ぬなら、乳兄弟として見届けねばなるまいと覚悟までしたのだ」
 いつもと変わらぬ、どこか茫洋とした空気をまとっているが、
 よく見ると、多少やつれた頬を翳らせて、縁起でもない言葉を吐いてみせる。
「生き返ったなら、ぜひとも嫌味の一つや二つや三つや四つも垂れたいところを、我慢してやった。それなのに、さらに私に心労をかけるというのか。いい加減、私の繊細な神経もすり切れようというものだ」
 ため息が、春風の口からもれる。
「……おまえ、一から勉強しなおして来い。繊細が聞いたら、泣きたくなる台詞だぞ」
「そいつが美人だったら、泣かせてやりたいものだが」
 これ見よがしな態度で、ようやく山吹は気づいた。
「おまえ、拗ねているな」
「人にあれだけ心配させた意趣返しだ」
 憮然とした顔で自分を振り仰ぐ山吹の前で、春風は屈託なく笑った。
「それに食事をとるほどの刻で、なにが変わるわけじゃあるまい」
 春風の言葉を待っていたかのように、扉の向こうに人の気配が動いた。里見が膳を重ね持って入って来る。
「急なことゆえ、たいしたおもてなしもできませぬ」
 小姓の目は複雑な怒りを現わしていた。
「近衛隊長は、術もお使いになるのですか?」
「なんの話だ?」
「いつお見えになられたのか、まるで気がつきませんでした。どうぞ表からお通りください。差し障りのないかぎりお取り次いたしますので」
 慇懃無礼もあからさまな態度だ。
 山吹はとっさに春風を見遣ったが、乳兄弟は素知らぬ顔を通している。たが、二人のやり取りを楽しんでいる様子が、その秀麗な顔にくっきりと現われていた。
 一方的に糾弾される趣味のない山吹は、春風への当てつけも込めて、里見に儀礼的な笑みを向け、ついでに小さな罠を張った。
「ご親切痛み入る。神官どのの身辺をあずかる身となれば、不測の事態も常に念頭に入れているのだな」
「もちろんです。知らぬうちに出入りされては、警固の者の士気にも関わりましょう」
「なるほど。一番側に仕える小姓ともあろう者が、侵入者に気づかなかったというわけだ」
 痛烈な嫌味であったが、その顔つきと口調を聞けば、山吹が本気で相手をしていないことくらい分かりそうなものなのだが、里見は生真面目に顔色を変える。
「春風様直属の私が、桂月宮の近衛隊長から命令を受けるいわれはありません」
 里見にしてみれば、大事な主人には誰であろうと軽々しく近づいてほしくない。
 乳兄弟というだけで近しすぎるのは、我慢がならないのだ。
「そのあたりにしておけ」
 非難というより、呆れた感の強い春風の声に、里見が我に返る。
 山吹といえど、夜の間に忍び入るという暴挙を働くからには、急を要する事情があるのだ。分かってはいるのだが、腹立たしさにかわりはない。
「私は扉の外に控えさせていただきます」
 表屋敷には断固として戻らぬと言外に告げて、里見は春風にだけ向かって礼をし、俊敏な動作で出ていった。
 やれやれ、とでも言いたげに息を吐いた山吹に、春風が楽しそうに笑う。
「ああ見えても、ときおり鋭くアヤカシを感知するようになった。行く先は有望だぞ」
「狩人としてか。……それを里見が望んでいるのならよいが。異界については京師人程の知識しかないと見える」
「破翔廊の存在までは教えてあるのだが」
 春風が肩をすくめ、山吹を見やる。
「なんだったらおまえを最高神官直属にしてやるぞ」
「断る。これ以上仕事をふやしてたまるか。それに里見にはそんなことは関係ないだろう。俺がおまえとタメ口をきくのが面白くないのさ」
「それを分かっているくせに、なぜあそこまで煽るんだ?」
 春風が呆れて問うと、山吹は憮然と黙り込む。
 「嫉妬、か……」
 納得顔でひそりと呟かれた言葉に、山吹は即、抗議する。
「馬鹿なことを」
「図星だろう」
 くっくっと、喉の奥でくすぐるように笑う春風の楽しげな様子に、山吹はどっと脱力し、
この話題から手を引いた。
 なにしろ、相手は韜晦の名人である。もっと悪いことには、春風が本気で面白がっていることだ。
 もっとものんびりともしていられない。
 小姓がこれ見よがしに置いていった膳に手をのばし、ふと、身の内にきりきり張り詰めていたものが楽になっていることに気づく。乳兄弟との他愛無い言葉の戯れ合いが、辰巳の死以来凝っていた緊迫感をほどよくほぐしたのだろうか。
 かっ込むように食事をすませた山吹に、呆れたような感嘆のまなざしを向けていた春風だったが、
「今朝の皇子の朝食の席に、素性の知れない少年が同席していたそうだ」
「樹音か?」
「だろう。あの遊蕩者を一晩で骨抜きにしたようだ」
 異界について皇子が並々ならぬ興味を持っていたとしても、異界のものが京師を歩き回っているとは、考えぬだろう。
「推測の域を出ないが」
 と、前置きをして、春風は淡々と語った。
「アヤカシは二体いると言ったな。あの少年が破翔廊を無傷で通れる貴族なら、ほかのアヤカシの形跡を消すことも可能だろう。
 人食いのアヤカシを捕らえぬことには断定はできぬが、おそらくそいつは少年が連れてきた囮だ。そう考えれば納得がいく」
 満月の夜、京師に残された形跡は一つ。そのアヤカシは犠牲者が出る前に、真岳が狩った。
 辰巳を襲った個体は、形跡を消している。さらにそれは樹音ではない。
「……やつがアヤカシをけしかけたわけか」 
「我々はやつに振りまわされたわけさ」
 素直な疑問に、春風は小さな笑みを向け、少年の仕掛けた罠をさらりと言ってのけたが、すぐに感情を消した最高神官の顔に戻る。
「異界の者の能力は未知数だ。貴族かアヤカシかは知れぬが、どのような力を持ち、なにを食らうのか、なにも分かっていない。我々には奴の犠牲者からそれを探る以外、知る手立てはない」
「自分の力を隠すために囮を仕立てたということか」
「そういうことだ。そしてもうひとつ……」
 思わせ振りに言葉を切って、春風は策謀者の微笑を刻む。
「異界側は何人(なんぴと)の訪問をも認めていない」
「………」
「貴族であれ、アヤカシであれ、好きに料理してくれというお墨付きだ」
 ふと、山吹の脳裏に自分が亜矢と交わした言葉がよみがえる。
――生きて帰してくれ。
「……俺は奴を追う」
「好きにするがよい。そなたの仕事だ」
 やるだけはやってみるがな――そう胸にごちた山吹の横顔が、凄絶な決意を宿し、また奇妙に辛そうでもあるのを、春風は意外なことのように眺めていたのだった。


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