居待月
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小雨が降ったかと思うと、ときおり雲間から緩やかな楕円を描く月が覗くといった、気紛れな空模様の黄昏だった。 瓔珞荘の表門へ真っすぐ歩み寄ってくる長身の若者に、男たちが警戒をあらわにする。中門廊(玄関)までの案内役を兼ねた用心棒だが、さすがに一流処とあって厳然たる姿だ。 不躾な視線を浴びながら若者が身分と来意を告げと、男があっと小さく息を飲んだ。 慌てた様子で、案内役が中門廊で応対に出た召使に取り次ぐ。 若者を見る召使の目にも非難の色が浮かんでいたが、口にだすような不躾なことはしなかった。 先立ってゆく召使の後に従って、長い廊下を奥へと歩いていく。 建物と建物をつなぐ渡り廊下を越えると、広やかな庭の山水が目に入ってきた。 枯葉が枝に残るばかりの、花の少ない季節である。薄暮に沈む庭園は水墨画のようで、こぶりな一重椿の赤い花だけが彩りだった。 召使は廊下の一番奥の扉の前で立ち止まると、かすかな逡巡を見せ、その横にある小部屋に招いた。 貴人の集う席に通してよいものか、判断を仰ぐためだろう。控えの間とはいえ、絹の紗を張った窓に刺繍をほどこした帳、卓と椅子は紫檀製という贅沢な調度である。 ほどなくして、召使を従えた春風が姿を現わした。たがいの出立ちを見るなり、たがいに絶句する。 「……よく入ってこれたな」 こらえきれずに、春風が忍び笑いを漏らす。 その春風は襞をたっぷり取った碾茶色のズボンの上に、淡緑の上着をまとい、飾り帯で締めている。その上に羽織った綸子の膝下までの長胴服の色こそ純白だが、肩の辺りと裾周りに金、銀糸で細密な文様がほどこしてあった。 華やかで、かつ清雅な衣裳を、春風はなんのてらいもなく身に着けているが、ほっそりした長身と見事に調和する選択だった。 だが、この館の雰囲気に相応しく美麗に装った客たちの中で、この若者が一番目立つ服装をしているのではないだろうか。 青灰色の上下と、墨色に同色の糸で忍冬紋様を織り出した胴服は、京師を微行するにはふさわしいが、ここでは明らかに場違いな出立ちである。胴服さえ脱いでしまえば、外京でも紛れこめそうだ。 しかしそれが、むしろ彼の精悍さを引立ててもいるのだが。 「店の者はさぞかし困惑しただろうな。……嫌がらせか?」 「どうとでも」 山吹は肩をすくめた。 「これでも気を使ったつもりだが。里見にしっかり釘を刺されたからな」 そうでなければ胴服すらまとわなかったと言いたげだった。 「私の小姓も役に立つわけか。まぁ私的な集まりだ。構うこともあるまい」 「ところで、これは新手の冗談か? 遊びにつき合えるほど俺は暇ではないのだが」 うわ目づかいにきらりと光った目が笑う。 「そなたにしては、てこずっているようだな」 だが春風の場合、どこかそれを楽しんでいるのは明らかだった。 「手間は取らせない。……たぶん」 「厄介ごとか?」 「皇子にはにっこり笑って『ご安心ください』とでも言っておけばよい」 「……その、にっこり笑ってというのはなんだ?」 怪訝な顔を向ける山吹に、艶冶な笑みを向ける。 「誰かが皇子の耳にそなたの噂を吹き込んだらしい」 「噂?」 「私の想い人」 呆れて踵を返そうとした山吹の腕を、素早く繊手が掴む。 「行くぞ」 春風は短く断じると、山吹を伴い、宴の間に入っていった。 一瞬にして、春風のまとう空気が変化する。 硬質な透明感のある面あるのは、完璧な笑みだ。友好的ではあるが、きっかり一線を画する笑み――。 だがその美しさゆえ、見る者にある種の感慨を抱かせる青年にとっては、それすら、対外的、政治的意味合いを強く意識したものにすぎないのだが。 室内には、自らの富貴をきそう人々の色彩が溢れていた。 天井から下がる銀細工の薫球からは、馥郁たる香木の煙が細く流れ、繊細な細工の燭台から柔らかな光が、部屋のそこここに陰影を作りつつ、瞬いている。 春風が同伴する新たな客に好奇の眼差しが注ぐなか、山吹は臆することなく進み出た。 取り巻きに囲まれて、料理に舌鼓を打っていた男が春風の姿を認め、嬉しげに笑みを作る。次の瞬間には、たとえようもなく優美で繊細な最高神官に、影のように従う精悍な男に、その視線が釘づけになった。 男はまだ四十にはならないはずだが、長年の遊蕩がそろそろ身体に現われているようだ。男前ではあるが、いささか疲れた遊蕩児という風情でしかなかった。 「昴雪殿、こちらが桂月宮近衛隊の山吹です」 皇子は、自分を睨んでいる男の存在に気を取られて、惚けている。 春風はその様子を楽しげに眺めてから、山吹に挨拶をうながす。先刻までの仏頂面を押しやり、彼は人当たりのよい笑顔でゆったりと会釈した。 「山吹です。皇子様には初めて御目文字します」 「良く、まいったの」 皇子がかすかに震えを帯びた声を出した。威厳も何もない皇子の振る舞いに数人の客が笑いをこらえていたが、桂月宮の二人は慇懃な様子を崩さない。 「お招きにあずかり、光栄に存じます」 その言葉にようやく我を取り戻した皇子は、 「そなたに会うのを楽しみにしておった」 「身にあまるお言葉でございます」 山吹の一礼に皇子は満足気に頷き、取り巻いていた者を、犬でも追い払うように手を振って遠ざけた。 透明な玻璃の高杯に満たされた深紅色の葡萄の酒が、きららかに燭の光を反射している。いかにも派手でいて、どことはない気品がある紅酒で喉を潤してから、皇子は心持ち声をひそめた。 「して、あそこはどうだ?」 「お気遣い恐れ入ります」 極上の笑みを浮かべた春風が人払いに謝意を告げ、そのあとを引き継いで、山吹は皇子に応えた。 「ご心配いりません。京師に出るものはおりませんので、ご安心を」 「結構。だが一度、それを味わってみたい気もするの」 薄笑いを浮かべた蕩児の目が露骨な情欲を映していたが、 「お戯れを。あれは人の身が負える快楽ではありませぬ」 山吹はさらりと受け流し、微苦笑を向けた。 皇子がどこまで異界のことを知っているのか不明だったが、自分に都合よく解釈しているのは間違いない。 一度異界の味を知ると、生涯、その甘美な快楽の奴隷と成り果ててしまう。命ある限り餓え、飢えに苛まれ、やがて己れが人であることすら認識できなくなる。 「それは恐ろしいのう。しかし狩人には異界に耐性があると聞くが」 皇子は大仰に首を振り、山吹のしなやかな身体に、ねっとり舐めまわすような視線をはわせる。 山吹の表情が次第に次第に険しさを増していく。 「耐性を持った者でも、取りこまれてしまえばそれまでです」 「まことかの。そなたなぞ秘かに楽しんでおるのではないか?」 一瞬だが山吹の脳蓋の奥で、血が逆流した。かろうじてそれを鎮めるだけの余裕が山吹に残っていたのは、皇子にとって幸いだったといえる。 春風がその危うさを察して、山吹の忍耐が切れる寸前に会話を引き継ぐ。 「昴雪殿は欲張りでいらっしゃる。瓔珞荘でのお楽しみの数々、私の耳にも届いておりますよ」 決まり悪そうな笑いを隠すように、皇子は赤い酒をぐいとあおる。 山吹に流した視線には淫靡な下心が見えすぎて、彼は一呼吸を置いて手放しかけた冷静さを取り戻そうとした。 「今宵の主客を独り占めにしては、皆様にはご不快でございましょう。 私たちはこれで失礼します」 もっともな口実を春風はさらりと言いのけたが、皇子の表情がわずかに強ばった。どうやら、ていよくあしらわれたことに気づいたかと、意地悪く山吹は腹の底で呟いた。 皇子の表情にあるのが、獲物を逃した悔しさにすぎぬと見抜いた春風が、薄く笑って乳兄弟の顔をちらりと見やった。 世間では珍しくないこととはいえ、輝雪皇子の男色趣味は有名だったのである。 皇子のもとを辞した二人のもとに、主催の絹商人が歩み寄ろうとするのを片手で制し、春風はゆったりと笑むことで、どちらが上位に位置するものかを示した。 軽い会釈を返し、そのまま扉の向こうに去ってゆく二つの背を、今をときめく錦大尽は、白けた顔で見送ったのだった。
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