本館 >JUNEちっくわーるど
太陽の西 月の東


居待月

<1>  <2>  <3>


<1>

 小雨が降ったかと思うと、ときおり雲間から緩やかな楕円を描く月が覗くといった、気紛れな空模様の黄昏だった。
 瓔珞荘の表門へ真っすぐ歩み寄ってくる長身の若者に、男たちが警戒をあらわにする。中門廊(玄関)までの案内役を兼ねた用心棒だが、さすがに一流処とあって厳然たる姿だ。
 不躾な視線を浴びながら若者が身分と来意を告げと、男があっと小さく息を飲んだ。
 慌てた様子で、案内役が中門廊で応対に出た召使に取り次ぐ。
 若者を見る召使の目にも非難の色が浮かんでいたが、口にだすような不躾なことはしなかった。
 先立ってゆく召使の後に従って、長い廊下を奥へと歩いていく。
 建物と建物をつなぐ渡り廊下を越えると、広やかな庭の山水が目に入ってきた。
 枯葉が枝に残るばかりの、花の少ない季節である。薄暮に沈む庭園は水墨画のようで、こぶりな一重椿の赤い花だけが彩りだった。
 召使は廊下の一番奥の扉の前で立ち止まると、かすかな逡巡を見せ、その横にある小部屋に招いた。
 貴人の集う席に通してよいものか、判断を仰ぐためだろう。控えの間とはいえ、絹の紗を張った窓に刺繍をほどこした帳、卓と椅子は紫檀製という贅沢な調度である。
 ほどなくして、召使を従えた春風が姿を現わした。たがいの出立ちを見るなり、たがいに絶句する。
「……よく入ってこれたな」
 こらえきれずに、春風が忍び笑いを漏らす。
 その春風は襞をたっぷり取った碾茶色のズボンの上に、淡緑の上着をまとい、飾り帯で締めている。その上に羽織った綸子の膝下までの長胴服の色こそ純白だが、肩の辺りと裾周りに金、銀糸で細密な文様がほどこしてあった。 
 華やかで、かつ清雅な衣裳を、春風はなんのてらいもなく身に着けているが、ほっそりした長身と見事に調和する選択だった。
 だが、この館の雰囲気に相応しく美麗に装った客たちの中で、この若者が一番目立つ服装をしているのではないだろうか。
 青灰色の上下と、墨色に同色の糸で忍冬紋様を織り出した胴服は、京師を微行するにはふさわしいが、ここでは明らかに場違いな出立ちである。胴服さえ脱いでしまえば、外京でも紛れこめそうだ。 しかしそれが、むしろ彼の精悍さを引立ててもいるのだが。
「店の者はさぞかし困惑しただろうな。……嫌がらせか?」
「どうとでも」
 山吹は肩をすくめた。
「これでも気を使ったつもりだが。里見にしっかり釘を刺されたからな」
 そうでなければ胴服すらまとわなかったと言いたげだった。
「私の小姓も役に立つわけか。まぁ私的な集まりだ。構うこともあるまい」
「ところで、これは新手の冗談か? 遊びにつき合えるほど俺は暇ではないのだが」
 うわ目づかいにきらりと光った目が笑う。 
「そなたにしては、てこずっているようだな」
 だが春風の場合、どこかそれを楽しんでいるのは明らかだった。
「手間は取らせない。……たぶん」
「厄介ごとか?」  
「皇子にはにっこり笑って『ご安心ください』とでも言っておけばよい」
「……その、にっこり笑ってというのはなんだ?」
 怪訝な顔を向ける山吹に、艶冶な笑みを向ける。
「誰かが皇子の耳にそなたの噂を吹き込んだらしい」
「噂?」
「私の想い人」
 呆れて踵を返そうとした山吹の腕を、素早く繊手が掴む。
「行くぞ」
 春風は短く断じると、山吹を伴い、宴の間に入っていった。
 一瞬にして、春風のまとう空気が変化する。
 硬質な透明感のある面あるのは、完璧な笑みだ。友好的ではあるが、きっかり一線を画する笑み――。
 だがその美しさゆえ、見る者にある種の感慨を抱かせる青年にとっては、それすら、対外的、政治的意味合いを強く意識したものにすぎないのだが。
 室内には、自らの富貴をきそう人々の色彩が溢れていた。
 天井から下がる銀細工の薫球からは、馥郁たる香木の煙が細く流れ、繊細な細工の燭台から柔らかな光が、部屋のそこここに陰影を作りつつ、瞬いている。
 春風が同伴する新たな客に好奇の眼差しが注ぐなか、山吹は臆することなく進み出た。
 取り巻きに囲まれて、料理に舌鼓を打っていた男が春風の姿を認め、嬉しげに笑みを作る。次の瞬間には、たとえようもなく優美で繊細な最高神官に、影のように従う精悍な男に、その視線が釘づけになった。
 男はまだ四十にはならないはずだが、長年の遊蕩がそろそろ身体に現われているようだ。男前ではあるが、いささか疲れた遊蕩児という風情でしかなかった。
「昴雪殿、こちらが桂月宮近衛隊の山吹です」
 皇子は、自分を睨んでいる男の存在に気を取られて、惚けている。
 春風はその様子を楽しげに眺めてから、山吹に挨拶をうながす。先刻までの仏頂面を押しやり、彼は人当たりのよい笑顔でゆったりと会釈した。
「山吹です。皇子様には初めて御目文字します」
「良く、まいったの」
 皇子がかすかに震えを帯びた声を出した。威厳も何もない皇子の振る舞いに数人の客が笑いをこらえていたが、桂月宮の二人は慇懃な様子を崩さない。
「お招きにあずかり、光栄に存じます」
  その言葉にようやく我を取り戻した皇子は、
「そなたに会うのを楽しみにしておった」
「身にあまるお言葉でございます」
 山吹の一礼に皇子は満足気に頷き、取り巻いていた者を、犬でも追い払うように手を振って遠ざけた。
 透明な玻璃の高杯に満たされた深紅色の葡萄の酒が、きららかに燭の光を反射している。いかにも派手でいて、どことはない気品がある紅酒で喉を潤してから、皇子は心持ち声をひそめた。
「して、あそこはどうだ?」
「お気遣い恐れ入ります」
 極上の笑みを浮かべた春風が人払いに謝意を告げ、そのあとを引き継いで、山吹は皇子に応えた。
「ご心配いりません。京師に出るものはおりませんので、ご安心を」
「結構。だが一度、それを味わってみたい気もするの」
 薄笑いを浮かべた蕩児の目が露骨な情欲を映していたが、
「お戯れを。あれは人の身が負える快楽ではありませぬ」
 山吹はさらりと受け流し、微苦笑を向けた。
 皇子がどこまで異界のことを知っているのか不明だったが、自分に都合よく解釈しているのは間違いない。
 一度異界の味を知ると、生涯、その甘美な快楽の奴隷と成り果ててしまう。命ある限り餓え、飢えに苛まれ、やがて己れが人であることすら認識できなくなる。
「それは恐ろしいのう。しかし狩人には異界に耐性があると聞くが」
 皇子は大仰に首を振り、山吹のしなやかな身体に、ねっとり舐めまわすような視線をはわせる。
 山吹の表情が次第に次第に険しさを増していく。
「耐性を持った者でも、取りこまれてしまえばそれまでです」
「まことかの。そなたなぞ秘かに楽しんでおるのではないか?」
 一瞬だが山吹の脳蓋の奥で、血が逆流した。かろうじてそれを鎮めるだけの余裕が山吹に残っていたのは、皇子にとって幸いだったといえる。
 春風がその危うさを察して、山吹の忍耐が切れる寸前に会話を引き継ぐ。
「昴雪殿は欲張りでいらっしゃる。瓔珞荘でのお楽しみの数々、私の耳にも届いておりますよ」
 決まり悪そうな笑いを隠すように、皇子は赤い酒をぐいとあおる。
 山吹に流した視線には淫靡な下心が見えすぎて、彼は一呼吸を置いて手放しかけた冷静さを取り戻そうとした。
「今宵の主客を独り占めにしては、皆様にはご不快でございましょう。 私たちはこれで失礼します」
 もっともな口実を春風はさらりと言いのけたが、皇子の表情がわずかに強ばった。どうやら、ていよくあしらわれたことに気づいたかと、意地悪く山吹は腹の底で呟いた。
 皇子の表情にあるのが、獲物を逃した悔しさにすぎぬと見抜いた春風が、薄く笑って乳兄弟の顔をちらりと見やった。
 世間では珍しくないこととはいえ、輝雪皇子の男色趣味は有名だったのである。
 皇子のもとを辞した二人のもとに、主催の絹商人が歩み寄ろうとするのを片手で制し、春風はゆったりと笑むことで、どちらが上位に位置するものかを示した。
 軽い会釈を返し、そのまま扉の向こうに去ってゆく二つの背を、今をときめく錦大尽は、白けた顔で見送ったのだった。

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<2>

 中庭に面した渡り廊下まで来て、山吹がこらえていたものを吐きだすように大きな嘆息をついた。
 春風が声をあげて笑いだす。
「よく我慢したと誉めてやろう」
「もう少しで殴るところだった」
 雲間から月光が漏れた刹那、雨に濡れた庭石が白く光った。
 軽く伸びをするように山吹は夜空を仰いだ。
 下の方を少し欠いて、歪な月が東の空にかかっていた。欠けたあたりの輪郭がおぼろに滲んでいる。
「粋狂もあそこまでいくと立派な物狂いだ。あれほど異界を味わってみたいというのだ。いっそおまえが相手をしてやればよい」
 憤懣やるかたなしといった風情の山吹に、春風は心外だという表情を作り、
「私にそんな力があるわけなかろう。そなたならどうか知らぬが」
「俺にもない」
 きっぱり断言して、ふと、山吹は探るような視線で隣に立つ青年を見やった。
「ひょっとして……」
 頷いて、春風は唇の端で笑い返し、ゆっくり歩きだす。
「私も散々当てこすられたが、あれは本気だったのだな」 
「……おまえ、面倒になって俺に押しつける算段だったわけではなかろうな」
「ご明察」
 目を剥く応えが、少し先を行く背中から返ってくる。足を止めて振り返ったのは、よく見慣れた春風の、ひどく楽しそうな悪戯っぽい顔だった。
「だが皇子じきじきのお声がかりだったのは本当だ。私もだしに使われたのさ。
皇子が直接、桂月宮管下の近衛を呼びつけるわけにはいかぬゆえ」
「……夜宴などいつも断っているではないか」
「うん?」
「なぜ、出る気になった?」
「平たくいえば、絹商人が申し出た法外な寄進額かな」
「………」
 こともなげに言われて、山吹は言葉も出ない。
 ここまであっけらかんとしていられると、もう肩先で笑うしかない。むろん怒る気にもなれない。
「少しは私の苦労が分かっただろう」
 なにを拗ねたのか、春風は、ふん、といった表情で庭の方へ目を向けた。
「異界を相手にしていた方が楽だと言いたいのか?
 どうでもよいが俺は早く風呂に入りたいぞ。身体中をなめくじが這っている気分だ」
「ここが妓楼というのはちょうどよいではないか。私もつきあってやろう」
「謹んで辞退する。俺は野郎と風呂に入る趣味はない」
 軽く皮肉った山吹に、少しばかり人の悪そうな笑みを浮かべた春風が小首をかしげてみせた。
「……私に遠慮は無用だが」
 その視線は庭から離れない。妓楼のなかでも美麗な庭と有名であるが、冬枯れの山水にも遅いこの季節、見惚れるほどのものではない。奇石を配した池に架かる、唐屋根を頂いた橋が目を引く程度だ。
 いったい何がと、山吹がその視線を追う。
 その目が、庭の向こう側、雅な朱色の欄の渡り廊下を、ゆっくりとした足取りでめぐってくる人影に、吸いつけられ、やがて大きく見開かれた。
 妓楼の女将とおぼしき物腰の豊かな女にいざなわれて、こちらへ向かってくるのは華奢な少年だった。
 艶やかでいて、典雅な美貌。
「さきほどから、ずっとおまえを見ていたようだが?」
「……やつだ」
 低い声に、春風はあらためて少年を見る。
「なに者だ?」
「確証はないのだが、いやな気がする。気分だけで、何が妙なのかが分からん。うっとうしい」
 春風の秀麗な面差しにわずかに不快の影が差す。
 山吹はその顔にちらりと目をやってから、すぐそこの角まできた少年の姿を捉える。そして低く殺した声で、聞かせるともなしに、ぽつりと呟いた。
「……おまえでも、分からぬか」
 その声から、いつもの自信が失われているのに、春風は気づいた。山吹が珍しくみせる弱気だった。
 内裏と権力を二分する最高神官の姿に女将が気づき、丁寧に頭を下げる。
「まあ。もうお帰りでございますか」
 素早く、春風は、時間を稼ぐと山吹に目くばせして、女将へ苦笑気味に小さくかぶりを振る。
「華やかな宴は不慣れなもので、お招きの礼を失念しました。これから戻るところです」
「どうぞごゆるりなさってくださいませ。宵はこれからでございますよ」
「こちらは?」 
「錦大尽様のご客人でございますよ」
 皇子への貢ぎ物なのだと、女将が匂わす。好色な皇子など、あっけなく釣り上げられるのが目に見えるようだった。
 ぬかりない大商人の手配りに、あらたな緊張が生まれる。
 少年がアヤカシだとしたら、この筋立ては偶然だとは考えにくい。異界にことのほか興味を持つ皇子なら、禁忌を承知の上でも手をこまねいていないだろう。
「樹音と申します。お見知りおきを」
 少年が小腰をかがめてふわりと一礼するのを、春風は冷ややかに黙殺した。
「まずは挨拶してきましょう。案内を頼めますか」
 樹音との同席は拒むとほのめかして、にこりと笑う。 その笑みに、女将の気は呑まれてしまった。
(そうでしょうとも)
 世俗の塵を知らない、純真無垢で透明な水のような微笑は、いっそ痛々しく見えた。
 無垢そのものの貴人に、妓楼というここの空気はそぐわない。
 早々に宴の席を立とうとしたこの青年の気持ちが理解できる――少なくとも、女将自身はそう思った。
 今、自分がいざなってきた者も並はずれた美貌だが、隠花の匂いがする。表面はあくまで清楚でつつましやかな姿なのだが、淫靡な瘴気を纏っている。
 同席を拒むのも当たり前だ。女将の決断は早かった。
「樹音様には、しばしお待ち頂けますか」
「私はここで庭を見ておりましょう」
 にっこり答えた樹音に女将は軽く頭を下げ、「どうぞ」と春風に先立った。
 女将のあとを歩みながら春風が、ふと、振り返える。そこには挑戦的な笑みを浮かべ、自分をじっと見据える樹音の姿があった。
 あどけなさの残る面差しには、冷然たる春風をも、ぞくりとさせる彩りを映している。
 ほんの一呼吸の間をおいて、視線が絡み合った刹那、樹音は何ごともなかったかのように優雅に低頭した。
「おかしなところで会うな」
 山吹の声が終るか終らぬうちに、少年がくるりと身体を反転させる。
「お声をかけていただくのを心待ちしておりました」
 嬉しげに告げてくる樹音に、山吹の困惑が深まる。
 少年はそのまま庭に通じる階段に足をかけ、庭に向かった。山吹があとに続くと信じていることが腹立たしいが、彼に選択の余地もない。
 夕刻まで降っていた雨で、しっとり濡れた夜気が二人を包む。
 樹音のゆたかな髪に月光が落ちて、濡れ濡れとした艶を与えている。
 唐屋根を頂く橋は四阿風になっており、長椅子がしつらえてあった。
 腰を下ろし、微笑んでいる少年に、アヤカシの凶々しさは感じられない。それでいて人外のものを、山吹は感じとっていた。
 疑いの目で見遣る彼に、
「私がお嫌いですか」
 樹音が頓狂な問いを発してくる。
「………」
 好きも嫌いも、山吹はそういう対象で考えたことはない。返答しようのない問いかけに絶句する彼を、少年は前夜と同じ熱心さで見つめてくる。
「お受けとりくださいましたか」
「――確かに」
「おん身様には必要なものでしょう?」
 山吹が京師に留まらざるを得ない理由の一つを、あっさり口にして首を傾げる樹音に、悪意は微塵もなさそうに見える。
 かすかに山吹の表情が強ばる。こちらの界では春風しか知らぬはずだ。
「あれ、咲かせておくのに苦労しました。こちらとは水が合わないのでしょうか」
「そなた……何者だ」
「お分りではないのですか?」
 わずかだが、口調の中に挑発するような響きがこもっていた。
 破翔廊から脱出できるのは、有翼族の貴族と強力なアヤカシのみ。そして、風を操り結界をめぐらす貴族ならまだしも、これほど完璧に異界の気配を消すアヤカシを、山吹は知らない。
 だが貴族訪問の報告はなく、少年はアヤカシとも異質だった。
「あいにくと異界に知り合いはいないのでな」
「こうすれば分かりますか?」
 ふくみ笑いをちらりと見せて、少年は山吹の肩先へすっと身を移した。
 なめらかな声が、香気とともに流れこむ。
 山吹の双眸を覗きながら、少年がしなだれかかってきた。
「お忘れになったとしても、それは仕方のないこと、諦めます。今から知っていただけば、差し支えありませんから」
 少年は、白い右手を山吹の胸元にそっと添わせた。なめらかな動きで衿にかかり、するりと内側にすべりこもうとする。
 ねっとりと甘くまつわりつくような香気が、唇とともに下りて、首筋をたどる。
 山吹の素肌に触れた唇から、指先から、じわり、と、何かがしみ込んでくる。
 ちりちり痺れるような、甘美な疼き。だが、
「色仕掛けが通じると思うなよ」
 山吹は、その手を無表情に振り払った。
 その冷ややかな視線と、少年のまなざしとが、交錯する。
 樹音は濡れて赤く光る唇の両端を引き上げて、嘲笑するかのような鋭い笑みを作ってみせた。ゆるやかに流した視線が、ぞっとするほど艶冶だった。
 いかなる美貌でも隠しきれない瘴気が、少年から立ちのぼるのを、山吹は感じ取った。
「その顔のほうがおまえらしい。そろそろ正体を明かしたらどうだ」
「それはおん身様とて、同じでございましょう」
 無言で言葉を受け止めた山吹に、樹音は続けた。
「おん身様には力がある。そのあなたが、なぜ春風殿に義理立てしておられるのです?」
「俺には、覚えがないが」
「臣下に置かれ、最高神官殿の七光りと陰口をたたかれ、つまるところ、利用されているだけではありませぬか」
「短い時間によくぞ調べたと褒めてほしいか」
「あたら有為の身を、あの人の影のままにむやみに埋もれさせて、それで本望といわれますか」
「京師中に、異界をふれてまわれるわけにもいくまい」
 山吹は、冷ややかに笑いかけ、
 「辰巳を殺したのは、おまえだな」
 と、狩人の顔で低く問いただした。
 ふいに話題を変えられて、少年は戸惑ったようだった。
「つれない方ですね。ようやくお話する機会が持てましたのに、そのようなむごい話をなさるとは」
「むごいと思うか、おまえでも」
「はい。ですが世の中にはいたしかたのないこともありましょう?」
 きらりと上がった双眸は、静かだった。
「自分の身を守るためには、やむを得ませぬ。
 それに……あれは、私ではないです。私は、あんな喰いかたはしません。あれは穢らわしいアヤカシの仕業ですもの」
 樹音の顔が軽い侮蔑にゆがむ。
 ゆがんでも、少女のような細い眉のあたりに、優美さがただよう。
 悪怯れもせず、あっさりと辰巳の死にざまを口にする樹音に、抑えていた山吹の怒りが一気に噴出する。 
「死してなお辱められる者の無念は感じぬか」
 双眸に、かっと炎が宿る。
 炯々と光る黒い光彩が、少しずつ、白金の光に変わっていく。
 山吹の身のうちに抑えこまれていた気――霊気がひときわ強く輝き、ゆらりとその背後にたちのぼるのを、樹音ははっきり見ていた。
 気迫と凄味が、空気を凍結させる。
 少年の顔色がさっと変わった。青くなったのではない。白い頬に赤い血がのぼり、ほんのり透けて見える。さながら花が酔ったような艶やかさだった。
 ほっと小さく息を吐く。
「……あぁ……綺麗だ」
 殺意がこもった白金の光彩を、恍惚と見つめる。 だが、目の底のわずかな翳だけが去らないのを、山吹は見抜いていただろうか。
「あなたの魂魄の色……その輝きが、私を呼んだんだ」
 追い詰められたのはどちらだったのか。
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<3>

 うかされたような足取りで、少年が山吹との距離を縮める。
「私なら、あなたに与えられる」
するり、と華奢な身体が、山吹のもとへ滑り込んできた。かわす間もなく、赤い唇が重ねられ、強引に口腔を探ってくる。
 抜けていく。
 何かが確実に奪われ、注ぎ込まれる――。
 甘美な酩酊感に取り込まれまいと、身構えた山吹の意識が、ふいに虚空に放り出される。
「なぜ、我慢するんです?」
 どこまでも沈んでゆこうとする意識――それとも、上昇してゆこうとするのか。
「私とまいりませんか?」
 失調していく感覚に、樹音が囁く。
 かすかな胸の痛み。
 山吹は幻影を見ている己れに気づいた。息苦しいのは、呼吸を忘れかけたためだ。
 いったいなにに息を呑んだのだろう。

――どこまでも深奥の闇に覆われた空間に、山吹はいた。
 上下左右も定かでない。真闇は締めつけるような圧迫感を持っていた。
 まだ十二歳の小童だ。泣きたいほど心細く、怯えていた。
 だが。
 彼は、独りではないはずだ。彼を呼んだ友がいるはずだ。
 暖かな栗色の髪と冷たく冴えた榛色の光彩を持つ乳兄弟が、彼を呼んでいる。
 だからこそ、己れはここにいる――とろりとした闇に手を差し伸べたときである。
 ふいに、少年の身体が離れた。
 唐突に突放されて、瞬間、なにごとが起こったのか分からず、山吹は身じろぎ一つできなかった。
 少年が耳をそばだてた。山吹が気づくより前に、思いがけぬ身軽さで後方に跳びすさる。
 ならって耳を澄ませる山吹の耳にも、その音が捉えられた。
(羽ばたき?)
 視界が、ふっと闇に呑まれた。月が陰ったのだ。
「狩人というのは、存外だらしのないものだな」
 少し離れたところの、ひときわ濃くわだかまった闇から声がかかったのは、そのときである。暗がりに光る薄碧の冷ややかなまなざしが、樹音を見据える。
「困るな、勝手なことして。颯(そう)どのが城にご不在の今なら、黙してやろうから、早く我らの界に戻れ」
 人の形をとった闇は言葉こそ乱暴だったが、どこか微妙な揶揄をふくんでいた。
 もしや、と目を剥いたのは山吹のみ。
 颯――というのは、異界の種族の名である。
 この世界では神とも、天狗とも異名を取っているが、異界側の破翔廊の管理責任者であり、物好きにも、側近にアヤカシを重用しているという。
 樹音を正面に、突然の闖入者を横目で見ながら、その素性に見当をつける。それを証明するように、ちりりと、山吹の感知能力に触れるものがあった。
 同時に、疑問がわきあがる。
 それを口に出そうとしたとき、口惜しそうに唇を引き結んでいた樹音が、
「私は、戻らぬ!」
 子供のような潔癖さで、叫んだ。
 対峙する人影が、抑えた声音で続ける。
「我とて、おぬしの気持ちが分からぬでもない。それをとがめだてするほど、野暮でもひまでもない。しかしそれほど大切な人間なら、いっそ、喰らってしまえばよいではないか。今からでも、おぬしの身のうちに取り込んでしまえばよい……」
「アヤカシのおまえと、私を一緒にするな。穢らわしい」
 はっきりと、侮蔑もあらわに、少年が吐き捨てた。
 目の前の人影がその側近のアヤカシであれば、知ってか知らずか、管理責任者は、ずいぶん物騒な側近を飼っていることになる。
「穢らわしい? おぬしの所業とて、我と大差ないと思うが」
 皮肉っぽく嗤った気配がした。
「まったく、存外、思い切りの悪い。きちんと覚悟があって、界を抜けたのではなかったのか。もたくさしおって、あげくに我ごときに見つかるとは――」
 見つからねば放っておいたと、言外に告げる言葉は、少年の皮肉まじりの声にさえぎられる。
「おまえこそ、さっさと隠れた方がよい。間もなく人が来る。
 その姿、人目についたら困るのではないか?」
 それに応えるように、
「樹音さま、どちらにおいでです? 樹音さま」
 渡り廊下から女将の呼ばわる声がした。はっとなったのは山吹と側近のアヤカシ。
 山吹が冷たい目を向けても、少年の顔に怯む気配は表れない。
「では、私は行きますから。
 今宵は不粋な邪魔が入ってしまい、残念でした。また、いずれ……」
 一瞬よぎった、なんともせつない表情を、少年は一礼する動作に隠した。ひらりと身をひるがえして、そのまま振り返りもせず、女将が待つ渡り廊下へと戻って行く。
 雲が流れるのが早く、ふたたび零れてきた青白い光が、
 毒気を抜かれたような表情の人物――人と呼べれば――をさらけ出した。
 白っぽい金色に輝く頭髪と蒼い皮膚、なによりも、背にたたまれた黒々と光沢を放つ翼が、人外のものの証だった。
 樹音の去った方向を見やって、アヤカシがため息まじりに首を振る。
「諦めてくれそうもないな」
 短くごちた薄碧の双眸を、山吹の氷のような眼差しが射抜いた。
「貴公には、礼を言わねばならぬのだろうが」
 目つきに負けず劣らず厳しい声音である。
 アヤカシは口を半開きにしたまま、笑いを凍らせていたが、
「現われ方が唐突であったか。申しわけない」
 と、緊張をほぐすように鼻梁を人差し指で掻いた。
「貴族の訪問があるとは聞いておらぬが」
「我は颯王子のお側近くにつかまつる亜夜と申すもの。お分りかと思うが、翼はあるが、我は貴族ではない」
「では条約により、狩らねばならぬが」
 山吹は突き放したが、目の光はさっきよりも和らいでいる。
「そこまで疑るのはひどいぞ。我はこの界に留まるつもりなぞ毛頭ない。ちょっと、ちょーっと遊びに来てみたら、あれを見つけてしまっただけで」
 亜夜の、きまり悪そうに苦笑いを浮かべた弁明に、山吹は曖昧な頷き方で応えた。不承不承といった風情である。
「ではお尋ねするが、今宵、破翔廊は閉ざしているはず。貴族といえど、通るにはかなりの力が必要と聞く。貴族ではない亜夜どのがいかに通過したか、お聞かせ願いたい」
 直截な申し出に、亜夜は渋い顔を作ったが、
「あやつの邪魔をしたのは、まずかったかもしれぬなぁ」
 諦めたように肩を落とすと、腕を組んだ。
「颯王子に、石をお借りしたのだ」
「石?」
「王族の方々のみが持つ石だ。知らぬか?」
 青菜のような皮膚の色さえ差し引けば、それなりに整った亜夜の顔を、山吹はまじまじと見返した。
 月長石か、と胸に言ちる。
 月の光が凝ったかのような美しさの、蒼白く輝く石は、桂月宮最高神官の地位の証しの品である。一般には象徴的なものと信じられているが、異界の一部を封じた、魔性の石だ。これを使えば、破翔廊の状態に関係なく異界との接触は可能である。破翔廊を行き来することさえも、できない相談ではない。
 もっとも、それに耐えうる人間はめったに存在しないし、石を使いこなす能力が必要でもあるが。
 山吹は内心で、おや、と首をかしげ、それからふと、仕掛けてみたくなった。
「……颯どのはご存じなのだろうか」
「はぁん?」
「次回、ご訪問の際にはぜひともご連絡いただきたいと、颯どのにお伝え願う」
 急に山吹につっこまれて、気まずそうに亜夜が天を仰いだ。
 山吹が察したとおり、上司である颯には無断で界を渡ってきたらしい。
「――狩人どののお手並み拝見といきたいところだが、いつまでも我がこの界に留まっては、おまえさまの邪魔になろう。いや、心配にはおよばぬ。我らの界といえど、そのへんにごろごろ転がっている代物ではないゆえ、おまえさまの仕事が増えることはあるまいよ」
 山吹が呆気に取られている間に、亜夜が翼を大きく開く。
「こんなことを言えた義理ではないが、あやつを頼む。できれば、生きて帰してくれ。我が二度と逃がさぬ」
「同族として庇うご所存か?」
 亜夜の面に、笑みがゆるやかに広がっていった。
「あやつは認めんだろうがな。……あいつは精だ。おそらく千年やそこら軽く生きている。だが可愛いものだぞ」
 ばさり、と一つはばたくと、亜夜の身体がふわりと浮いた。
 翼に月明かりが反射して、闇色が淡く浮かび上がっている。
「亜夜どの!」
「気にするな。流星か、天狗とでも思うだろうよ」
 人目につく――山吹が言葉を発するより早く、亜夜が虚空から無責任な応えを返す。
 瞬く間にふわりとかすみ、亜夜の姿は、次にはもう見えなくなってしまったのだった。
 いいようにあしらわれた格好になったが、不思議と屈辱感はなかった。堂々とアヤカシと公言していった亜夜であったが、嫌悪もない。それどこか、
(可愛いもの、か。貴公のほうがよほど可愛いものだぞ)
 天を見上げたまま、山吹は片頬だけで笑いながら息を吐き、淡い闇に沈む庭をあとにした。
 次にするべき仕事が待っている。



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