立待月
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月齢十七日――虚空に蒼く光る楕円の月が浮かんでいる。 いつもと同じ喧騒の夜が小路を浸していた。
桂沙の京師は、内裏の御座す陽鵬殿(ようほうでん)や貴族の館、堂々たる商館が並ぶ上京(かみぎょう)と、商人や市井の人間が集まって暮らす下京(しもぎょう)と区分されている。その間には幅八丈ほどの広場のごとき大街が横たわり、歴然たる身分区分がなされていた。
下京は大路によって整然と区切られ、坊城(塀で囲んだ町)を形成し、その内部はさらに小路で細分されていた。 碁盤の目のように整備された京師とは正反対の狭い小路を、山吹は歩いていた。下京の南側に吹き寄せられるようにしてできあがった外京(げきょう)である。 下京との間には茅や芒の生い茂る一帯が三町ほども続き、外京からの京師への出入りは厳しく制限された。 たとえ京師で仕事を得られたとしても、定められた刻限を過ぎれば、『犯夜』として厳しい咎めを受けるのだ。 外京を一歩出れば、少しだけ上等な暮らしが待っている。露骨なまでの差が、道一本を隔てて存在していた。 行政から外れた地域だけに、狭い小路は無秩序に錯綜し、びっしり立ち並ぶ建物と、それを結ぶ路地は迷路のように入り組んでいる。 ここで暮らすのは大抵が他国から流れてきた浮浪人だ。 京師の底辺の仕事を請け負うのであるが、それでも仕事に有りつければよほどましで、大半が貧困のうちに吹き溜まりの中に沈んでゆく。 山吹の、裾の短い前合わせの上着とゆったりしたズボン、無造作に締めた帯の左腰に剣を吊すという出立ちは、外京を微行するときの身形である。 京師には、着衣一つにしても身分によって制約があるのだが、今、彼が身に着けているのは、どちらかというと下層庶民の常服だ。身綺麗なだけで、浮浪人と間違えられても仕方ない格好だった。 細い小路に露店が並び、暖かい湯気を立てている店の前には暖を求める人が群れていた。 山吹の腕を、女がぶら下るように引っ張って来る。まだ十三、四と見える娘はとろんとした目付きで媚びた笑いを浮かべている。 「ねぇ、遊んでよう。お金持ってるだろ。あたい、今日はまだお客が取れなくてさ」 足を止めた男を脈ありと踏んだのか、さらに媚態を作る娘の手を、そっと引き剥がす。 無表情な顔が向けられると、見下されたとでも思ったか大声で毒突く娘を無視して、山吹は再び歩きだした。 感知能力は近くに何かがいると告げているのだが、それがアヤカシだと確証が取れない。
二日過ぎても犠牲者も発見されず、追うものの残滓すら捉えられないでいる。 真岳が狩った個体には、ほかのアヤカシと接触した形跡はなかった。 やはりアヤカシは一体だけだっのか。 だが満月の夜感じた違和感を無視することはできない。
ふいに、山吹の黒瞳が揺らぐ。 狭い路地の一つに入ると屎尿の臭いが迫ってきた。それに混じって黴臭い汚水の臭いが、壁と壁の間に漂っている。 路地を折れるたびに喧騒は遠退き、人気が少なくなっていった。 なんとも言えない奇妙な感触だった。 なにかが違う。 それが分からない――獲物を追跡する中で、これほど不確かな感覚を覚えたことはなかった。 春風も感知しているはずの感覚を、重ねたかった。 それほど山吹は確証が持てなかったのだ。 もっとも、彼が素直に協力するとは思えなかったが。 個体確認ができなければ話にならない。 確認さえすれば、ほかの狩人たちに指示も出せるのだが、今は闇の中を手探りで歩いているようだ。完全に手詰まりの状況だった。 人間一人がやっとの狭さの路地を通りぬけ、いくらか広い小路に出る。 もどかしさから足を早めた山吹の耳に、緊迫した男の叫び声が飛び込んできた。 四つ角が交差する、ぽっかりと穴が開いたような空間に共同井戸があった。 寄り添うように立ち並ぶ家々は闇に沈む。 短い苦鳴が薄暮に沈む風景を切り裂く。 足を止めると、山吹は反射的に腰を沈め、落とし差しに差した刀の柄(つか)に手をやった。 数個の人影が、激しく動き回っている。斬り合いか、と山吹は踏み出しかけた足を止めた。 外京には得体の知れぬ浮浪人や盗賊などがいくらでも隠れている。そんな輩が斬り合っているなら放っておいても構うまいと、割り切るのが必要なのも外京だった。それが生き馬の目を抜く外京の暗黙の約束事でもあった。 だが賊徒同士の斬り合いにしては動きが妙だった。 二人を三人がかりで取り囲んでいる。だが、狙われているのは一方の人影だけだと、山吹の目には映った。 剣を構えているのは、山吹より二つ三つ年嵩と思われるその男だけで、もうひとりは丸腰のようだ。 男が賊徒のひとりに切りかかる。 囲みが破れ、その一瞬の隙をついて、人影が足をもつれさせながら走り出た。 山吹の姿を目にした男が、戦力どころか足手まといでしかない一方を突き飛ばして、彼に押しつけたらしい。 だが追ってくる者たちの動きも早い。いやでも巻き込まれたらしいと、山吹は苦笑を胸に落として剣を抜き放った。 新手の出現に、追ってくる男たちの動きが鈍った。 山吹は男たちを一瞥すると、追ってきた賊徒の二人を睨んだ。いずれも薄汚れた風体だが、それなりに腕は立つらしく動きに無駄はない。 「加減はしない。逃げたければ逃げろ」 山吹はいささかまと外れな恫喝を試みた。ただの賊徒ならば金にもならぬことに命をかけることもない。これで引き下がるかもしれないと考えたのだ。 男たちは、一瞬、ためらったようにも見えたが、次の刹那には奇声を発して斬りかかってきた。 初太刀を跳ね返した直後、山吹の剣の切っ先が男の横頚を刎ねている。 噴き出す血煙を、山吹は前に大きく跳んで避けた。 鼻をつく血臭が無垢の闇を汚す。 振り返ると、自分を巻き込んでくれた男が、残り二人の片割れを 袈裟掛けに斬りおろす瞬間が目に飛び込んできた。すでに残った賊徒は路地の奥へ逃げ出している。 男は剣を鞘に収め、山吹のほうに向き直ると深々と一礼した。 「助太刀を感謝する。俺は辰巳と申す他国者だ」 「俺が賊徒の仲間だったらいかがするおつもりだった?」 山吹も相手の素姓を探りつつ、その軽率を尋ねた。 辰巳と名乗った青年の風体はいくぶん古びているものの、整った顔立ちをしており、物腰も氏の良さを窺わせる。好奇心から外京深くまぎれ込んでしまったか、流れてまだ日が浅いのだろう。 「そのくらいの目は利くつもりだ」 山吹の言葉に非難を感じてか、辰巳がむっつり応える。 「外京は鄙にもまして物騒な処だ。用心するに越したことはない」 「……俺にもわけの分からぬうちに斬り合いになっていたのだ」 彼がめぐらせた視線の先に、戦力外となっていた人影が立ち竦んでいた。 「私のせいですね。酔漢に絡まれて往生していた私を庇ってくれたのでしょう?」 柔らかな美声である。 真っすぐ山吹を見つめる、深い睫に縁取られた黒瞳に、さきほどの斬り合いへの怯えは、欠片ほども感じられない。 まだ少年と言っていい、あどけなさの残る典雅な美貌だった。すっきりと伸びた鼻梁に、桜色の口唇。夜目にも艶やかな黒髪が抜けるような肌の白さを際立たせている。 形の良い唇がもの言いたげに震え、言葉を噤む。辰巳が不審を顔に顕したが、少年は山吹から視線を外さなかった。 ふいに、白顔に人懐こい笑顔を乗せて、少年が優雅な物腰で一礼してくる。 「ありがとうございました」 「知り人か?」 山吹が口を開くよりも素早く尋ねたのは辰巳である。その声音には少しばかり苛立ちが滲んでいる。助けたのは自分が先だとでも言いたいのだろう。 少年にもそれが分かったのか、辰巳にも一礼を返し、 「樹音(むらね)と申します。 初めまして……と申し上げるところですが、 おん身様とは以前お目にかかったように存じますが」 すぐに興味を山吹に向けるあからさまな様子に、彼のほうが思わず苦笑させられる。 「いや、初見だろう。怪我はないか?」 山吹の言葉に、樹音は軽く両腕を広げて見せる。童が着物を自慢するような、妙にあどけない仕草だ。 「ええ、どこも。おん身様は……」 「失礼、山吹という。ところで、あの賊徒どもはただの酔漢だったと言われるか?」 「質問ばかりですね」 婉然と微笑み、山吹の中の闇を透かすように目を細める。 「……鮮やかなものですね」 言葉の意味が掴めず、絶句する山吹に、 「私が気になりますか?」 と、少年はさらに謎かける。 「山吹様とはまたお目にかかれましょう」 慇懃に辞去を述べ、惚けたように突っ立っている辰巳にも一礼して、樹音はゆっくり踵を返した。 物騒極まりない垂れ篭めた闇の奥へ、一振りの剣も佩かず、少年はけれんもなく進んでいく。 困惑の表情のまま痩身の後姿を見送る山吹に、辰巳が白い視線を投げかける。 「狸か狐に化かされた気分だ。貴公、本当に知り人ではないのか?」 「始めて見る顔だ」 「では貴公も逃げられた口か。上玉だったのにもったいないことをしたな。ああいうときは適当に話を合わせておけば良いのだ」 いかにも口惜しげな声を聞いていた山吹が、にやっと笑った。 「悪いが俺にはその趣味はない。遠慮はいらん。気になるならおん身が追って行けばいい」 「相手にもされなかったのにか。それにあれはまともとも思えん。よほどの空けか物狂いか、天狗憑き……いや、済まぬ。そのようなつもりで言ったわけではないのだ」 山吹の唇に浮かんだ皮肉な笑いを剣呑なものと勘違いしたか、 辰巳は口こもりつつ、乱れた黒髪をさかんに掻きまわした。 この国では天狗は天魔とも呼ばれ、山野を自在に行き交い、ときには人を誑かすと信じられていた。その一方で、風を操り、天に住む神として広く信仰されてもいる。 三十年余り前に、京師を恐怖に陥れた鬼を退治したという伝説以来、京師人の信仰はさらに深まったといえる。 人々は、天狗を神聖なるものとして崇拝しつつ、忌避を抱くのだ。 男が山吹を天狗信奉者と考えても不思議ではなかった。 「つまり、天狗様に守られているのかもしれん」 「ふん。……天狗も趣味が悪い」 「すまん。悪気があってのことではないのだ。 京師では天狗を悪し様に言ってはならんと知ってはいたんだが――」 辰巳が困り果てたように首を竦める。 その仕草に、山吹は押し殺した笑い声を上げた。 笑いの意味を解せぬ男は、憮然と口を引き結んでいる。 「安心しろ。俺は信仰など持っておらん。だが色々な輩がいるからな、口は慎んだほうがいいぞ」 山吹はふたたび忍び笑った。 きまり悪そうに苦笑いを浮かべた辰巳だったが、 「ところで、貴公はこれからどうするのだ? 興も覚めてしまったし、酒でも飲みにいかんか。酌み交わす相手もなく腐っていたのだが、貴公とは気持ち良く酔えそうだ」 と、悪戯を仕掛ける悪童の顔で誘いをかける。 「残念だが……」 とたんに辰巳は気落ちした顔を見せた。 「何を考えている? 不粋な人探しだぞ」 「野暮は言わんよ」 必要のない弁明を聞いて、辰巳がにやっと笑う。 「いずれ会うこともあろうよ。そのときまで楽しみはお預けだ」 「それは恐いな」 闊達な辰巳と話しているのは楽しかったが、自分にはすることがある。山吹は話を切り上げ、蒼い闇に沈む小路に足を進めた。 歩き回りながら、山吹は次第に焦燥を募らせた。 空気に混じる異界の匂い。 だが、アヤカシの個体確認ができない。 ふと、己れを疑って、山吹は軽く頭を振った。 感知能力に狂いはないはずだ。 ほんの微かな匂いを追って、山吹はいつのまにか自分が一巡して、斬り合いのあった狭い十字路に戻っていることに気がついた。 (ここにいたのか) それは徒党を組む賊徒ではなかった。辰巳という男からも、なにも感じなかった。 そして怪しげではあったが、樹音にも異界の気配はしなかった。それでも少年の関与を、擬態とも憑依とも分からぬままに、山吹は確信していた。 細心の注意を払って辺りを見渡す。 うっとうしげに眉根を寄せた山吹の目が、一輪の花を捉えた。 花は家の戸板から飛び出ている。 闇の中で家の形に見えていたが、近づくと、半ば朽ちかけた廃屋だった。 入り口を覆っている傾いた戸板の亀裂に、それは差してあった。 月の蒼い光りが、深紅の花弁と金色の花粉に深い色味を与えている。 山吹の、両の掌を合わせたほどの、椿――。 柳のように細くしなやかな枝の先で、花弁が重たげに揺れている。 枝を戸板から引抜くと、ねっとりとした香りが鼻孔をくすぐり、山吹は眉を顰めた。 甘く饐えた、強い芳香を放つ花は、この世界の植物ではなかった。 異界の花だ。 張り詰めた緊張が山吹の全身から吹き上がる。氷のような眼差しが、深紅の花弁を射抜く。 (わざと置いていったか……) 脳裏に少年の典雅な美貌を思い浮べ、 「確かに……また会えるだろうさ」 我知らず、山吹はぼそりと呟いた。目つきに負けず劣らず厳しい声音だった。 その手に取られた異界の花が、見る間に生気を失っていく。カサカサに乾いて色を失った花弁が、ぽとりと落ちた。 山吹はそれを踏みしだき、踵を返した。
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