望月
山吹と連れ立って館から馬を進めてきた春風は、その道が狭く閉ざすところまで来ると静かに轡を引き、背後に広がる森を振り返る。 かすかな吐息が春風の唇から零れる。 春まだ浅い桂沙の国では、草木が芽吹き、国花の玉蘭のつぼみもふくらみはじめていたが、今は満ちた月からふりそそぐ蒼白い月光が、すべてを無彩色に沈めていた。 黒々と横たわる圧倒的に濃密な森の輪郭が、いくらか青味を増した空との境をなしている。 まだ深く分け入ってもいないが、すでにその入り口にある春風の館は、森に呑み込まれたごとく、篝火の明かりすら臨めない。 森は、人の住む常界とを隔てる境界だった。市井の人間は決して足を踏み入れない。神が宿る森として、あるいはまがまがしい魔神の住まわるところと心の奥底で畏れつつ、人は信仰を寄せるのだ。 嘴(くちばし)を持った天狗が守り神とも、禍神(まががみ)を封印しているとも、噂にはこと欠かない。めったに姿を見ることもかなわぬ、桂月宮最高位に位置する春風の、あまりにも人間ばなれした美しさも、様々な憶測をまねく一端であるかもしれない。 信仰はこの世ならぬものへの畏怖といえた。 うなじでまとめた春風の長い亜麻色の髪も、山吹の漆黒の髪も、望月の蒼い光に沈んでる。 宮に通じる道のこの場所で轡を引くのは、春風の無意識の習慣となっていた。 あくまで表の顔を装う春風が館から出て桂月宮に足を運ぶことは少ない。この刻に宮へ向かうことすら奇異なことである。 そんな彼を見やると、山吹は精悍な顔を柔らかい笑みになごませた。 野性的な逞しさを印象づける容姿が、思いがけない繊細な優しさを覗かせる。 春風の整いすぎた白皙が、ふりそそぐ月光のなかに浮き上がる。 美しい作り物めいた顔貌は、乳兄弟として育った山吹には見慣れたものだ。色素が薄いせいで硝子玉のごとく見える瞳とあいまって、感情を持たない人形のように見せる。 春風が桂月宮の最高神官だった父、夏井の地位を後継して三年。いつしか二頭の馬は、きまってここで足を止めるようになってしまった。 常界へ惜別の想いを告げるかのような、ほんの数呼吸の、儀式にも似たひとときである。 春風の黒馬が、緩んだ轡などはなからあてにしていない様子で、なだらかに登る森の深奥に足を進める。燦然ときらめいていた星々が、瞬きを繰り返すうちに、次第次第にその数を減らしていく。 やがて黎明を迎えようとしいてる。風はいよいよ冷たかった。 山吹はわずかに細めた眼差しで東の方を見やり、粕毛の愛馬で後に続いた。 京師(みやこ)の北の端に位置するこの地域一帯は、桂月宮の直轄となっており、一般の立ち入りは厳重に禁止されている。 人々が桂月宮とよびならわす宮は広大な森を背景に建立され、参拝などもこちらで受ける。だが、真の桂月宮は森のほぼ中央に位置した。 瀟洒な表の桂月宮とは対照的に、武骨なくらい堅牢さを誇示している。真宮を取り囲んでそびえ建つ塀には考えられるかぎりの防御体制が施こされ、いかなる侵入者も許されない。 だがそれは、この常界を護るためのものだった。むろん、その内容はけっして明らかにされることはなかったが。 二騎の姿を認めると、ただ一ヶ所設けられた門が重々しく開かれる。梢を抜ける風は濃厚な木々の香りを含んで、濃密な森の翳りをいっそう深く感じさせる。 満ちた月はいまだ虚空に浮かんでいる。東の山の端から陽が昇れば、異界とを繋ぐ通路、破翔廊(はじょうろう)が閉じる。だがそれまでには、今しばらくの猶予が必要だった。
二人は鞍を降り、宮の中央部に向かった。 桂月宮真宮の内部は中央部に沿って緩やかな曲線を描く構造となっていた。 宮全体の規模からは違和感を覚えるほど、内部の施設は微々たるものだ。 宿直(とのい)のときの私室でもある各スタッフの執務室。破翔廊を監視するための部屋。奥域には賄い方や食堂、下僕たちの部屋もあるが、一番重要なものはその中央部だった。 そこには何もない。 知らぬ者には、このがらんどうの空間が何の意味を持つのか、分からぬに違いない。だが、それこそが桂月宮の最高機密でもある破翔廊が、地上で唯一開く場所なのだ。 重い湿気を含んだ空気の揺らぎを感じながら、山吹は霊気を鋭く張りめぐらせた。 ならび立つ春風の顔にもかすかな緊張が見られる。それは長いつきあいである山吹だからこそ分かる程度で、外目には呑気とも思えるほど泰然とした態度であったが。 異界――こことは異なる次元である。 神である有翼人種が治める世界であり、人を喰らう異形のものが住む世界。 五人の神によって封印されているアヤカシであるが、破翔廊が繋がるとき、封印に綻びが生ずる。 それが望月の夜であった。 次元が開いてから三十年余り。桂月宮の中で破翔廊は今も生きている。 破翔廊の責任管理は桂月宮にあった。 なによりも、異形のものを排除できるのは桂月宮のみなのだ。
初めて破翔廊が開いたとき、一瞬にして数名が犠牲となった。 原因も分からぬままに猟奇な殺人が続き、悪鬼の存在を桂沙の京師人が噂するまで、たいした時間はかからなかった。 国の要である陽凰殿(ようほうでん)、さらにその最高位である内裏への不信が、急激に膨れあがる。 内裏という立場は神々の加護により結界となっている。だからこそ、内裏が国を一つに纏めてこのかた、京師に鬼が出現することはなかったのだ。 その神々の御心が内裏から離れてしまったのではないか。 鬼退治の祈祷に成果がないのも、そのためではないかと――。 祈祷も効かない異界の存在に慌てふためいた内裏は、自分の血に連なる高貴なる者を供物として捧げる。それが春風の父、夏井だった。 夏井が、異界の神と遭遇したのは僥倖であったのかもしれない。 夏井の祈りに呼応して、ぬばたまの美しい翼をもつ神が顕れ、人々を悪鬼から救ったという話は半ば伝説となっている。 結果としては一度は見捨てた夏井によって、内裏の立場は逆転することになる。 すでに異界は夏井を頂点に抱く桂月宮の手の中にあった。京師の人々は夏井を救世観音のごとく奉っていたのである。 間もなく異形なるものの完全排除と、政(まつりごと)への不介入を条件に契約が成立する。 桂月宮への絶対の不可侵。 体制を重んじて、陽凰殿は光を、桂月宮は闇を統べるものとされたが、内裏は一国一体制の中に独立機関を認めざるを得なかったのだ。 互いの利害が一応一致した契約だったが、普通の人間に異界のものを見分けることができない以上、宮側に有利であった。 桂月宮には狩人(かりびと)と呼ばれる数名が常駐し、破翔廊の管理にあたっている。 しかし彼らの本来の仕事は、そこから逃れたアヤカシを狩ることであった。 人間の血肉を求めて彷徨いでた弱小なアヤカシのたぐいは破翔廊通過中に排除される。 桂月宮から逃れることのできたアヤカシは破翔廊から現われた途端に排除されるものと違い、見境なしに人間を襲うことはない。破翔廊との戦いに傷つき、力を消耗したアヤカシは、己れの血肉とする獲物を求め、人の多い京師にさすらいでる。 人間そっくりに擬態または憑依し、人の群れに紛れ込み、ひっそりと獲物を狙う。皮肉にも、知力をそなえたアヤカシのおかげで、いたずらに犠牲者が増えることはなかったが、狩人の感知能力だけが頼りの捜索である。 脱走者の存在を知るものは、山吹を筆頭とする狩人たちのほかには、桂月宮最高神官、春風だけである。 アヤカシが残す、わずかばかりの異界の匂いを追って、狩人たちは京師全域に飛んでいるころであった。 山吹は重い空気の淀みの中に奇妙な感触を見ていた。その脇に佇む春風は、破翔廊から流れてくるあるかなしかの異界の風に、心地良さげに身をさらしている。しっとりとした白絹の長胴服の裾が軽く揺らぐ。 「そんなに喰らうと腹をこわすぞ」 緊迫感のない乳兄弟に山吹が皮肉を投げる。 「そうしたらおまえが介抱してくれるのだろう?」 しれっと応えながら、春風は天上の笑みを浮かべる。 真実を知らぬ者には、たおやかな青年としか見えない茫洋たる姿だ。 だが、桂月宮の若き後継者に対する生い立ちの疑惑と陰湿な画策に、微笑みを刻みつ、片手で握手を求め、片手で完膚なきまで相手を叩きのめし敵を葬り去る、非情を知る青年である。 堅く固めた土間の肌に山吹が静かに指を這わせる様子を見て、春風の、茶というより緑に近い榛(はしばみ)色の目が鋭く光る。 「アヤカシは?」 「狩人たちが追っている」 いつもとはあまりに異なる違和感。 「だが……これは」 訝しげに目を細めた春風に、山吹は無言で頷いた。 「形跡を消した気配がある」 独り言のように呟いてから、春風はそれを否定するかのように首を振る。 「ありえぬ」 「だからおまえに宮まで出張ってもらった」 「……形跡を消せるのは貴族だけだ。貴族が知らせもなくこちらを訪問するとは考えられぬ」 「颯(そう)殿から連絡は?」 異界の有翼族の名前を聞くや、春風の形の良い眉が憂いを造った。少なくとも他人にはそう映る。が、胸のうちでは思いっきり渋面となっているのを察して、山吹は唇だけで笑う。 「あの昼行灯に期待するな。こちらの苦労なぞ分かろうとも思わぬよ」 「誰かに似てるな」 「私のことか?」 「自覚があるのは結構なことだ」 しみじみと言う山吹に、春風がにやりと笑いかけた。 「血筋は争えぬと言いたげだな」 さらりと、己れの出生の秘密を告げる。 春風の生母は異界の貴族の姫だった。異界で、破翔廊を封ずる役目を果たす颯の姉でもあり、春風を出産した直後、皮肉にも破翔廊を抜け出したアヤカシに襲われ、肉体を無くした。精神体だけになってしまった姫は異界に戻っているという。 夏井が没した今、それを知る者は山吹のみだ。 盗み見た春風はいたって穏やかな表情だが、内心を読ませぬ彼一流の仮面のようでもある。
「彼らが欠伸一つする時間で、こちらの界では一日が過ぎてしまうのだ。申し立てたところで、応えが返ってくるのに一年や二年かかるだろうさ」 諦め口調とは裏腹に、山吹をちらと流し見遣った表情はどこか楽しそうですらあった。 「今までのアヤカシとは違うのかも知れぬ。……いずれにせよ犠牲者が出れば個体確認も易くなろう」 「簡単に言ってくれる」 山吹がその作業を想像して眉を顰める。 アヤカシが好む人間の部位は一様ではない。臓腑を好むもの、脳髄のみを喰らうもの、人の精気を好むものと様々である。酸鼻な遺体だけが残されるのだ。犠牲者がでれば検非違使庁との絡みもあり、狩人たちの行動はかなりの制約を受ける。 「仕方あるまい。そなたのほかに個体確認のできる者はいないのだから」 春風が疲労を滲ませた男に思わせ振りな笑みを向ける。 「俺だけね……。結構。俺がいなくなったらおまえががんばってくれるんだろうな」 「私でよければいつなりと」 乳兄弟の死を前提した会話に、春風は悠然と微笑む。 「その底意地の悪さをおまえの小姓に見せてやりたいものだ。どうもあのガキはおまえに誑かされているようだ」 「里見とまたやり合ったのか?」 「わざわざ表門まで出迎えにきた」 「そなたに敬意を払ったのではないか」 うんざりした山吹の声に、春風は心底楽しげな笑みを返す。 「己れでも信じぬことをよく言う。俺を追い返す心づもりだったと分かっているだろう。 おまえを悪所に連込もうとしているかのように、俺を物凄い目で睨んでいたぞ。自分の小姓くらい教育しておけ」 「そなたのところにも、一人とんでもないのがいるではないか」 「狩人は俺の部下ではない」 「責任者はそなただ」 「押しつけたのは誰だ?」 名指しするまでもなく二人の脳裏に描かれたのは、左の頬に古い傷跡を持つ男だ。人を人とも思わぬ傲岸不遜な振る舞いと協調性のなさで、狩人仲間からさえ敬遠される男だ。 「腕はたつだろう」 皮肉な笑みに、山吹は不機嫌丸出しで頷く。 確かに腕はいい。アヤカシの半分近くがその男の手によって捕らえられているのだから。 あまりに強引な狩り方に手を焼いている山吹であったが、今さら春風の厚顔に呆れなおしてもしようがないとばかりに、口に出したのは別のことであった。 「異界との友好条約も結構だが、こうアヤカシが多いと、おまえの言う昼行灯とやらに文句の一つも言ってやりたくなる」 「そうぼやくな。条約がなければ、今頃この界は異界に呑み込まれていたはずだ」 「分かっているさ。条約がなければ、おまえも俺もここでこうしていなかったこともな」 山吹は嫌味たっぷりに言い放ち春風を苛立たしげに見やるが、睨まれたほうは軽く笑み、素知らぬ顔でたたずんでいる。
ふいに、暖かな栗色の髪を持つ青年が冷たく冴えた眼差しを門の方向に向けた。 硬質な黒髪の男の黒瞳が眇められ、その視線のあとを追う。 樹陰に沈む空間に騎影が近づいてくる。酷薄な笑みを浮かべ、馬から下りた男の肩には、一体の人型がかつがれていた。 アヤカシである。破翔廊から逃れてから、わずか二刻での捕獲であった。 精神体のアヤカシが肉体を形作るに必要な時間――狩人の行動が犠牲者の有無に大きく影響する。狩人の感知能力のみが形ないものを追跡し、実体化するときを狙って狩る。 犠牲者が出ないうちにアヤカシが捕獲されたことに安心しつつも、山吹は男の労をねぎらうにはほど遠い気分だった。
もっともその男にして、そんな言葉は求めてもいないだろうが。 二十六歳にして、すでに霜降りとなった刈り上げ髪をアヤカシの体液でそめた真岳が、春風に勝ち誇った顔を向ける。 「お人形さんも一緒とは豪勢なお出迎えじゃねぇか」 肩から投げ出されたアヤカシの体液が飛び散る。 「楠谷(くすや)はどうした?」 あからさまな皮肉を込めた言葉にも山吹は表情を変えず、無駄と知りつつ、今夜真岳と行動を共にしているはずの狩人の所在を尋ねる。 「はぐれた」 つくろう気も感じられない白々しい嘘だ。 山吹は深々と溜息を吐き、土間に放り出されたアヤカシに目を向けた。 真岳が仕留めたアヤカシは瀕死ではあるが、まだ生きている。口元にこびりついた体液は乾き、片足はあらぬ方向へ曲がっている。 「なんで一思いに殺してやらない?」 「それじゃつまらねぇ」 「条約違反だ」 「ここまで弱らせときゃ破翔廊に放り込めば消滅する。殺(け)す方法に違いはねえぜ」 全身を返り血でそめた真岳は、殺戮の余韻を色濃く残していた。癖のある嗤いを向けると、左頬に残る大きな古傷が歪んだ影を落とす。
闇に落ちた、虚無だけを映す瞳。 人を寄せつけず、自らを語ることもせず、真岳はもっぱら単独で狩りをする。 「ところでなんでお人形さんがここにいるんだ?」 足手まといでしかないと皮肉を隠そうともしない声に、春風が婉然と笑いかけた。 「そなたの身を案じたのでな」 春風の言葉に、真岳はさらに敵意を露にする。 「けっ、減らねぇ口だぜ。案外野郎に会いたくて忍んできたんじゃねえのか」 自分の上使を野郎呼ばわりして真岳が吐き捨てる。 「分かっているではないか」 「……可愛いのはその面だけだな」 「誉めていただいて光栄だ。そなたもなかなかのものではないか。 頬の傷が男前を上げているぞ」 春風が余裕の笑みで応える。 真岳の頬に抉ったような傷を刻んだ事件こそが、彼と春風の確執の原因となっていたが、それを禁忌とするしおらしさなど二人は持ち合わせていない。 「おかげで俺は桂月宮の近衛ときた。ありがたくって涙が出るぜ」 「……いい加減にしろ」 無益な応酬に、地を這うような陰欝な声が割って入る。 「報告することはないのか」 「なんのことだ? 俺はこれから風呂に入るんだが、それにも報告が必要だっていうのか? それよりいいのか? 早く放り込まねえと破翔廊が閉まっちまうぜ」 厳しい視線に、真岳が平然と嘯く。山吹の温和な顔に厳しさが増してくる。 「アヤカシを捕らえたとき、誰か側にいなかったか?」 「それがなんだって言うんだ?」 二人の視線が強く絡み合う。 「あんたの、そのずば抜けた感知能力ってヤツか?」 その顔に現われた彩りに、山吹はこれ以上話しても無駄だと悟る。アヤカシに特別な拘りを持つ真岳だ。たとえ緊急を要する事態が起こっているとしても、自分の追う獲物について、決して漏らすはずもない。 「くわしい報告はあとで受ける。いいな」 言うべきことがあるはずだと言外に断じた山吹に、真岳は肩をそびやかした。 「お人形さんも気をつけろよ。こんな死にぞこないでも苦しまぎれに襲いかかるかもしれねぇぜ」 山吹の強い眼差しを受け流し、真岳はぴくりとも動かないアヤカシを蹴飛ばした。 一瞬、春風を睨みつけ、鼻歌を歌いながら悠然と立ち去る。 山吹は怒りを振り払うかのように軽く頭を振り、アヤカシの上に屈み込んだ。はだけた衣服から覗く腹に拳で殴打したらしい痣が数ヶ所、ありえぬ方向を向いた片足は半分引き千切れている。力任せの仕業だった。 殺さずに相手の動きを奪うためには、狩る者と狩られるものとの間に相当の力量差が必要だ。狩人としての真岳の能力は疑いようもなかったが、山吹はそのやり方を称賛する気にはならな かった。 多少の痛ましさを覚えながら、破翔廊にアヤカシを送り込む。 真闇の空間にゆったりと引き寄せられながら、目に見えない何かが覆い被さるようにその個体は侵食され、薄れていく。 蒼穹に眩い光が広がった。太陽が昇ったのである。 満月を終えた今、異界への回廊は緩やかに閉ざされようとしている。 |