西鶴というと、『好色一代男』『好色五人女』などの好色物のせいで色眼鏡で見られがちだが、『日本永代蔵』『世間胸算用』などの町人物、『武道伝来記』などの武家物と、ジャンルは多岐にわたる。 もっとも好色物といっても、当時としてはセンセーショナルだったかもしれないけれど、ポルノではないので念のため。
さて、その井原西鶴氏、本名を平山藤五クンという。 浮世草子・人形浄瑠璃作家、俳諧師と、才能豊かな御仁。 1642年(寛永19年)、大阪は鎗屋町に生まれ、東横堀川*で産湯を使った…かもしれない。 (*・・地図で調べたのだけど、この時代の川の名前が分からない)
武士出身だとか、父親は刀剣商を営んでいたとか、両親とは早くに死に別れ祖父に養育されたとか、数々の噂はあるが、1642年(寛永19年)大阪の鎗屋町に生まれたという以外、出自・家系などは不詳だという。 ともあれ、豊かな家庭で何不自由なく育てられ、放蕩息子の素地が作られたことだろう。
15歳で俳諧を学び始め、21歳で俳諧の点者(評点を加える人)となる。 自由奔放な作風から「オランダ西鶴」と呼ばれ、俳諧師として活躍。 (たぶん)いい気になったのだろう、家業も継がずに放蕩三昧。 ついに勘当され、遊郭の太鼓持ちなどをやっていたという。 ま、これらの経験が彼の作風を生んだのだとすれば、何ごとも無駄にはならないってこと。
1682年41歳のとき、『好色一代男』を書いて大ブレイク、それに味をしめて散文作家に転向。雅語や俗語を自由に使い、人間の欲望や享楽的な生活を描いた作品を次々と発表。 作家としての活動は41〜51歳までのたった10年間だが、彼によって人情や風俗を描いた「浮世草子」という分野が確立する。
プライベートな生活に関しては資料は少ないため、ほとんど謎だが、3人の子を得るも、若くして恋女房が病没。その後、長女、次女も夭折。さらに西鶴・51歳のとき、視覚障害があった三女も他界と、家族運すこぶる悪し。 明治・大正・昭和に渡って多くの作家の創作方法などに影響を与え、「日本が生んだ偉大なる作家」と歴史に名を残すが、作品だけが彼の遺伝子を伝えていると言えよう。
1693年(元禄6年)8月10日、大阪にて死す。享年52歳。 「人間五十年の究まり、それさへ我にはあまりたるに、ましてや」を前書きとして、 「浮き世の月見過しにけり末2年」が辞世の句。 人生50年、それさえ自分には長いくらいなのに、さらに2年も生きてしまった――って感じかな。
参考文献/『新典社叢書12 西鶴の文芸』 |