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「 お茶、美味しかったですね」
唐突な話題の変換に、和弘は思わず車の速度を落とし、言葉もなく、まじまじと助手席のその顔を見てしまった。
「 冷めてもほんのり甘くて。佐伯さんと同じくらいの歳で、あんなにうまいお茶を入れる男の人って、不思議な人ですよね」
男の、流れるような美しい所作を思い返し、
「 茶の湯でもやっているんじゃないか? それに……歳は俺より上だろ。三十にはならんだろうが」
和弘はぼやきのような訂正を入れつつ、周に違和感を覚える。
人間嫌いというのではないのだろうが、彼は他人に興味など、ついぞ待ったことがないように思う。
その周が会ったばかりの男を気にかけている――。
確かに、不思議というより胡散臭いと言ったほうがふさわしい人物であるが、それもこの企画のための支障にはなるまい。
「 はっきり了解をもらったし、正式な借家契約はまだだけど、まぁ大丈夫だろう。やっと肩の荷が下りた気分だよ。それでなくても予定がずれ込んでいるからな」
「 そうですか」
「 そうですかって、おまえねぇ……。気が抜ける受け答えはやめてくれよ。脱力のあまり事故っちまうぞ」
周の、柳に風、のれんに腕押しぶりは今に始まったことではないが、虚しさが募る。
だいたい自分の個展のこととなれば、もっとこだわりや熱意があって然るべきではないのか。
それとも、この期に及んでも実感が湧いてこないのだろうか。どこか浮き世離れした周なら、それもありえそうではある。
横目でちらりと助手席を窺う。まっすぐな綺麗な目が、上目遣いに和弘を見ている。
少し上がり気味の目尻で、暗褐色の瞳が大きい。
「 ごめん、薄ぼんやりで」
本人は意識していないのだろうが、わずかに困惑を刷いた目の表情に、どこか子供のような甘さが滲む。
和弘は慌てて視線を前に向けた。
いつもながらこの目に引き込まれてしまう自分に、ひっそりと溜息をもらす。
執着心が薄いのは分っている。
そのせいか周は、絵で身を立てようとか名を売ろうとかいう積極性にも欠ける。他人に対しても、自分に対しても、こだわりはきわめて希薄だ。
周の、ただ一つの執着が、絵を描く行為だった。
彼の黒瞳が何を映しているのか。何を考え、何を思い、どう受け取っているのか。
分らぬままに、和弘は惚れ込んでしまったのだ。
初めは、彼の描くその繊細な絵に。そして、周自身に。
周と知り合ったのは高校時代だから、和弘とのつきあいは長い。2年後輩の周が、同じ美術部に入部してきたのがけっかけだった。
綺麗で物静かな下級生だが、そのデッサン力の確かさは、芸術至上主義の顧問にすら目を見張らせた。
冷静に対象を分析し、紙の上に再構築していく。
高校生離れした腕とはいえ、デッサン力だけなら形式にすぎない。
だが周には、確かに光るものがあった。
周の才能に、和弘が嫉妬しなかったとは言わない。いまだに喉の奥に刺さった魚の骨のように、胸の深奥にそれは燻り続けているのだから。
それに押しつぶされず、自棄にもならず、和弘が美大に進学したのは、かねてより日本画材店兼、画廊を営む家業を継ぐための布石と割り切っていたからだ。
進学とともに、周とは自然と疎遠になった。
再会したのは、周の絵の方が先だった。
和弘はすでに研究生となっていた。
新人にすごいのがいる――学内に噂が立ち、好奇心から覗いた絵に周の筆を感じ、彼が同じ美大に進学していたことを知ったのだ。
「 母を説得するのに時間がかかってしまって」
母は絵を描く人間に偏見を持っているので――。
日本画科の二年に在籍していた周は、一年遅れた理由をそう語った。
そういえば高校時代、スケッチブックすら家に持って帰れないと、彼がぼやいたことがあったと思いだしたが、そのときは深く考えもしなかった。
そしてやはり、周の才能は群を抜いて光っていた。
とかく芸術家肌の若い連中が陥りがちな、前衛性や新奇をてらった手法には目もくれず、時間さえあれば周はただ黙々と絵筆を取り続ける。
彼の描くものは花鳥風月の世界とは一線を画したが、克明な写実と伝統的な様式美、独特の空間表現を融合して、静謐な静寂感に包まれていた。水際だった画技が醸しだすえもいわれぬ気品が、見る者を惹きつけるのだ。
その才能に惚れこんで以来、一番のファンであり、
後援者
を自認する和弘にとって、周の個展を開くことは、彼の作品を世に知らしめたいという念願を叶える第一歩である。
それは同時に、研究畑を離れた和弘の画商としての力量を世に問う初仕事でもあった。
周の作品はすでに三十点をこえて、画廊の収蔵庫に保管されている。小さな個展を開くのには充分だった。
だが、和弘が笹生周の初めての個展を企画してから、すでに一年近くを経過している。遅滞は、和弘の並々ならぬ思い入れのためであった。
たとえば表装一つにしても、絵を殺さぬようにシンプルに、だがあくまで粋を凝らし、極上の素材を使う。
錦の古代裂で仕立てた軸も、上質の黒檀や紫檀を用いた額装も、それに負けることなく、いっそう鮮やかに印象づける周の作品には、けっして高くはない。
そして場所――無機質な画廊の空間よりも、もっとふさわしいどこかがあるはずだ。
極めて精緻で高雅なそれらの絵は、ただ画廊の壁に並べて鑑賞されるのではなく、それにふさわしい趣のある場所で、少数の目利きに味わってもらってこそ、その価値も生きる。
それがファンとしての和弘の見立てであり、画商としての戦略であった。
閑静で、ある程度古色のある数寄屋というのが、周の個展のためにイメージした場所だった。
そのために和弘は得意先の素封家などを訪ねてまわった。しかし理想と折り合いがつかないまま、時間だけが過ぎていった。
その家を見つけたのは、ほんの偶然だった。
やはり得意先から紹介を受けて訪れてみたが収穫がなく、諦めて帰りかけたときである。
歴史のある古都は、ちょっと奥まると車一台がやっと通れる程度の狭い道が多い。Uターンさせる空き地を探して車を進めていたが、固く門を閉ざした屋敷ばかりで、そんなスペースすら見当たらなかった。
いっそ、このまま進めば、いずれは街道に出るかもしれない。和弘は半ば諦観しつつ、車を走らせた。
だが、やがて民家も途絶えがちになり、行き交う車もなくなれば、今度は行き止まりの不安が過ぎる。
のろのろと九十九折りの坂を登りきったところで、和弘はそれに気づいた。
雑木林の中に打たれた石畳の径(こみち)――。
薄暮のせまる黄昏時は人影もなく、石畳はひっそりと木立ちの向こうに消えている。
ふとした好奇心から、和弘は車をそのまま置いてその径に足を向けた。
いつからか積もる落葉も石畳の周りだけはきれいに掃き寄せられており、苔生してビロードのような感触の平石のつなぎ目が足音を呑みこんで、周囲は森閑とした静けさが漂う。
いくらも進まぬうちに、その家は忽然と姿を現した。
長く左右に伸びた土塀に嵌め込まれた格子の扉は少し煤けて、年代を感じさせる。ところごとろ小さく欠け落ちた土壁の隙間に、濃緑の苔やごく小さな雑草が芽吹いているが、手入れは行き届いており、ほどよく寂れている。
まだ葉を落としたままの裸木が多いあたりの風景とは対照的に、塀の内は深い緑の常緑樹が繁り、石畳は前栽の間を縫って続く。
その奥に夕暮れの影をまとって、数奇屋風の家屋がひっそりとした佇まいを見せていた。
鮮やかに黒味を帯びた杉格子の玄関と、壁の嵌め込み窓の藍と黄色の色硝子のアンバランスな調和は、和洋折衷の大正ロマンの雰囲気を醸し、数奇屋独特の落ち着きに軽やかさを与えている。
さり気なく立てられた楓の門柱の、ちょうど目の高さのあたりを削り取ってしたためられた墨書は、ほとんど消えかけている。灰色の煤けた文字は、辛うじて『待月亭』と読めた。
しばらく和弘は呆気に取られていた。周の個展のために誂えた舞台のようだ――脳裡を過ぎった、次の瞬間、 和弘は土壁に嵌め込まれた扉を開けて、玄関に向かっていた。
玄関先に現れたのは、和弘よりわずかに年長と思われる男だった。その風体に和弘は面食らう。
家の佇まいに合わせたかのような、着流した紬――茶の湯でもやっているのだろうか。渋い色身の紬はその年頃に似合わず、痩身の男にしっくりと馴染んでいた。
篁岑(たかみね)と名乗った男は、突然の来訪者に不快な素振りを見せるでもなく、
「 宿屋はずいぶん昔に閉めておりますので」
淡々と告げた。
宿屋を営んでいた名残りが『待月亭』の墨痕だったのかと納得しつつ、和弘は諦め切れなかった。
簡素だが心配りの行き届いた外観や、玄関かまちから続く待合処の落ち着いた仕様、その向こうに垣間見える閑静な庭など、目にしたものすべてに心惹かれる。
今は誰にも貸していないのを幸い、せめて拝見するだけでもと和弘は拝み倒した。
そして室内の意匠にさらに魅せられたのだ。
辞するときには、何が何でもここを借り受けると、和弘は固く決心していた。
そして今日、周を引っぱり出し、彼の絵を携えて和弘は再訪した。
なによりもそれを見てもらったほうが、よほど説得に効果があるだろうという目論みは的中し、和弘の情熱は結実したのだった。
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