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「 驚きましたよ。この家に来客なんて絶えて久しいことですから」
篁岑はかすかに微笑んで、和弘に視線を移す。
視線が外れた瞬間、周は背中の強ばりがすっと解けていくのを感じて、自分が知らずしてひどく緊張していたのに気づいた。
( なんだろう……)
見つめられたのは、ほんの一瞬のことだ。
それなのに息苦しい。頬が強張る。
和弘とこの家の門をくぐり、玄関の引き違い戸がからりと引かれ、現れたこの家の主人(あるじ)と対面してから、心が金縛りにあっているかのようだ。
漠然とした、掴みどころのない感情を宥めるように、周は前に出されていた茶に手を伸ばした。
ころりと丸みをおびた茶碗は唇の当たりが柔らかく、茶はすでに冷めてしまっているが、口に含むとほんのり甘く香った。
春はまだ浅く、陽が西に傾くにつれて畳の間からひんやりした空気がにじみ出てくる。だだ、この部屋にはファンヒーターどころか、火の気のひとつもなかった。
だがこの寒さは、暖房がないことだけが理由ではないように思えた。宿を閉めて長いというだけあって、家の空気もどこか古びた匂いと、冷え冷えとした荒廃の気配がする。
どういう人間なのだろう。
こんな寒々しい古びた家に独り暮らし、伸びた髪を無造作に項でゆるくまとめ、質素な紬をさらりとまとった男。
構わぬ身形をしているのとは裏腹に、貴人のような端正な面立ちに穏やかな笑みを浮かべ、端座して崩れもしない。落ち着きはらった態度が、見かけのわりに老成した印象を与える男だった。
周は、ふと眉を曇らせる。
初めて会った人間に興味を覚えている自分に、今になって気づいたのだ。
「 よろしければ、もう一度中を拝見できますか。彼にも確認させたいので」
和弘の言葉に、篁岑は頷いて立ち上がった。
冷えた空気が揺らぐ。その拍子に、鼻先を、淡く丁子の香りが掠めた。
かつてどこかで味わったことのあるような……。
そんなはずはないと当惑しながら、無意識な周の視線は、篁岑の白い素足が動くのを追っていた。
「 どうぞ」
「 お世話かけます。ほら、周」
廊下にも冷えた空気が淀んでいた。
突き当たりの襖の前で篁岑が足を止める。
薄暗い廊下は右に折れて、さらに奥の暗がりへと伸びていた。
金銀の砂子を散らした雲竜柄のくすんだ色合いが、この家屋が建てられた当時の時代の優美さを伝える。
篁岑がそれを開け放つと、十二畳ほどの座敷が現れる。
天井の高い部屋だった。
座敷の奥にも対の襖があり、畳を渡った篁岑がそれを、さらにその奥の襖をと開いていくと、同じ広さの三つの座敷が鍵型に連なる。
造りはみな同じだが、向って右側には略式ながらの床の間と違い棚が切られ、ほの暗い天井には今どき珍しい煤竹が使われている。庭と向かい合う面は雪見障子だ。
「 素泊まりの安宿で、ずいぶん荒っぽい使い方をしていましたからね。みずぼらしいですが」
障子を開けながら、篁岑が二人を振り返る。
庭に面した滑らかな広縁がそれらの部屋を繋いでいる。
「 とんでもない。さり気ないけど見事な仕立てだ」
これだけは安宿めいた丸電球も、レトロな艶消し硝子の小振りな笠によって、鄙びた趣を醸しだす。
少しずつずれて合わさる巧みな部屋の造りが、全体を見渡すとゆったりした奥行きを生み出していた。
「 まず畳の敷き替えだな。それと照明の手配か。襖は今のように片寄せにして――」
鴨居に吊し具を下げて……この面を中心に季節を追って絵を掛け……床の間に下げる軸は……。
嬉々として室内を見回りながら和弘が思いつきを口にするのを、周は他人事のように聞いていた。
だが周は、座敷の入り口から動けないでいた。
足がすくむ。
( なんだろう……?)
膝頭が震えだすのをこらえ、周は何食わぬ顔で敷居をまたぐ。
待月亭に来るのは初めてだ。しかし心の隅で、かつてどこかで見たような感覚に襲われる。
そんなはずはない――当惑する端から、それは既視感などではなく、確かに知っていると記憶が告げる。
「 床柱の春慶の磨きなんて粋ですよね。今の時代じゃ贅沢すぎてとても手が出せない。最高の舞台ですよ。そう思うだろ、周?」
和弘の声が、遠い。
足元をすくわれるかのような失調感に襲われる。
思わず閉じた瞼の裏で、赤い光が瞬く。
自分の意識が身体を離れ、光に絡め取られる感覚――。
――殺さないで!
悲鳴? あれは……。
「 周?」
怪訝そうに和弘が振り向く。
同時にタン…と、軽やかな音が響き、周の白昼夢を破った。
座敷の真ん中にたたずんだまま、篁岑のすっきり伸びた背中を見つめている自分に気づく。
開け放した障子の桟に手を掛けていることで、あの音はそれだったのかと知れる。
目を上げると、彼は黙ってこちらを見ていた。
静かな眼差しは何も語らぬまま、だがしっとりと自分を包み込むようで、周は小さく息を吐いた。
「 古家だから空気が悪い。こちらへどうぞ」
広縁の外べりに嵌め込んだ硝子の引き戸をゆっくりと開いて、篁岑が招いた。
四季の花木を形よく配した庭が望めた。
凛とした気品のある白梅。
淡紅の枝垂れ梅。
肩の力を抜くとともに、周はその声に惹かれるがごとく彼の傍らに歩み寄った。
広縁から直接下りられるように、畳一枚分もありそうな靴脱ぎ石が置かれている。
背後に借景する芽吹きを待つ雑木林の梢から、早春の柔らかい西日が淡い紗のように注ぎ、ひんやりと肌に触れる空気の中に、かぐわしい梅の香が漂ってくる。
「 落ち着きましたか」
問いかけに頷きながら、周は戸惑う。
閑静な庭の佇まいよりも、花の美しさよりも、傍らに立つ男の穏やかな横顔が、さざめく心をなだめていく。
「 あの……」
勝手に言葉が口をついた。
何かを言いあぐむ周の目を、あの静かな眼差しが間近に見つめる。
深く暗い双眸の、その奥でちらちら瞬く金茶色の輝きに引き込まれる。
ふわりと掠めゆく丁香が、記憶のどこかに繋がりそうなもどかしい感覚。
唐突に、懐かしさも似た奇妙な感情が込み上げてくる。
――会ったことがないだろうか、あなたに……。
切ないようなその想いを慌てて飲み下し、周は無理に視線をはがした。
「 桜は、ないんですか」
「 ……ええ。この庭にはありません」
物静かな返事に、わずかに躊躇する空白が感じられたのは気のせいだろうか。
そして、そんなことを問いかけた自分にまた戸惑う。
それを振り払うように、周は視線に映った花木を指差して、篁岑に尋ねた。
「 あの花は?」
「 みつまた。枝先が全部三つに分かれているでしょう」
「 あれが? 花を見るのは初めてかな」
「 あれはまだ蕾です。もう少しすると黄色い小花が開いて、手毬のようになる」
篁岑が淡く笑った。
「 よろしければ写しに来てください。入り口はいつでも開けておきますから」
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