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「 彼が好きでしたよ。わたしのような人外のものではないけれど、夢を喰らうしか生きるすべを持たない、不器用な彼が。彼もまた世間から外れた
流浪者
だったから。
……だが、わたしも、喰らわずにはいられなかった。あの頃はまたわたしも若くて、身の
餓
えを抑えられなかった」
穏やかな横顔にある篁岑の視線は、今は艶めいた花骸だけしかない足元に注がれている。
「 きみはあの時も、そこでわたしを見ていましたね。きみのお母さんさえも恐怖したわたしの仕業を。汚れない澄んだ目で。
……きみと再会したとき、すぐに分りましたよ。そして、いつかきみは気づくだろうと思った」
自ら罪を曝け出す篁岑がまとう静謐な空気。
「 そう。……わたしはきみが思う通りの化け物ですよ。きみのお父さんだけではない。数えきれないほどの人の血を吸い――」
その冷静さを見守っていた周の胸に、妙にいたたまれない不快な感情が湧き上がってくる。
「 嘘だ」
身体の中を熱く炙るようなそれを飲み干し、周は告白をさえぎった。
振り返った男は、驚愕の表情で立ち尽くす。
「 言ったでしょう。僕は全部思い出しているんです」
「 周……」
「 あなたは母を助けた。 そして僕も。一部始終を見ていたのに……」
「 気紛れだよ。それに……もう満腹だったしね」
「 嘘だ」
その真摯さに気圧されて、篁岑は揺らいだような表情を浮かべた。
何かを告げようとする男を、周は強い調子でさえぎる。
「 母はそれを口外できないことを、あなたは分っていたんだ。そんなことをすれば、母は自分の首を絞めることになる」
あの殺し方は、彼のやりかたではない。
殺したければ、彼ならば触れるだけで事足りるはずだ。その瞬間を、自分は見ていたのだから。
だが、父は篁岑が触れる前から、血に塗れていたではないか。
「 あなたは父を
消した
けれど、
殺して
はいない。そして、そうすることで、本当の殺人の痕をも消してしまった。……あれは、母が犯した――」
何がきっかけだったのか、幼い自分には分らなかった。だが、確かに彼女は、父との生活に倦んでいたのだろう。
夢の世界でしか生きられない男だと、気づいたのかもしれない。
決して彼女を振り向こうとはしない。
男が見つめているのは、己れだけだと。
かつてすべてを捨てるほど愛していただけに、彼女の絶望は深く身の内を巣食い、憎しみへと変貌する。
閉ざされた記憶の中から浮かび上がる、もうひとつの情景。
ばら色の光りと薄闇が交錯する、狭間の時間。
己れの世界にこもって、ひたすら絵筆を走らせる男の後ろ姿を、周はぼんやり眺めていた。
話しかけても返事は返らないことを、幼心に知っていたから、周は黙って父を見る。
だが、彼女は男に振り向いて欲しかった。だから男の背中に言葉を投げる。
やはり返答はなく、それでも毎日毎夜、繰返し繰返し。
あの日、言葉の代わりに、女は憎しみの刃を男の背中に突き刺した。
這いずって逃げようともがく男を、何度も切りつけ、切り裂いた――。
音が途絶え、すべてが息を潜めた、あの一瞬の静寂。
――おまえの罪は始末してやろう。
その代わり、誰にも語らず、二度とここを訪れるな。
その罪のない子供のために。
囁く声はひそやかな風のようだった。
一も二もなく頷いたくせに、彼女は篁岑の行為に激しく慄き、苦鳴にも似た声で哀願した。
裂けそうなほど見開いた目から滂沱の涙を流し、醜く歪んだ般若の顔で。
――殺さないで……!
彼に言われるまでもなく沈黙は守られたが、紗江子は死ぬまで忘れることはできなかっただろう。
「 周……」
「 僕の記憶だけをあなたは封印した。母に自分の罪を忘れさせないために。
母に僕を捨てさせないために」
それでも、己れの罪が暴かれるのを怖れた母は、子供を見張り続けなければならない。その地獄が、彼女に与えられた罪だ。
「 そうでしょう?」
縁から下り、戸惑う相手へ周は足を踏み出す。
「 あのときから、僕はずっとここにいた気がする」
昼と夜との狭間。
人世に姿形を許されぬものが息づき始める大逢魔が刻――急速に闇が翳りを深める。
だが虚空を流れる薄雲に白々と月光が滲み、ほのかに明るい夜だった。
「 父と同じように、僕もこの庭が好きでした。そして……あなたが」
月下のもと、桜は無常の美しさをたたえて静寂に沈んでいる。
大地に落ちる淡い樹影。
たたずむ彼の足元に影はない。
それでも、周の内に恐怖はなかった。
そして気づく。彼を恐ろしいと思ったことは、一度もないのだと。
怖れたのは母の罪を暴こうとする自分への、潜在的な禁忌だ。
あの業ともいえる行為を見ていたときでさえ、篁岑を恐ろしいとも厭わしいとも思わなかった。美しい夢のようで、ただ不思議と哀しかっただけだ。
歩み寄る周を、その穏やかな顔をわずかに強ばらせ、なぜか怯えるように篁岑はが見つめる。
周はそっと触れた手は冷たく、迷いながら、躊躇いながら、だが、しっかりとその背に腕をまわして抱き締めた身体も、自分よりずっと冷たい。
篁岑は身じろぎもせず、周のするがままにさせていた。
長い沈黙ののち、篁岑がぽつりと口を開く。
「 わたしが人殺しであることに、変わりはないよ」
それでも……?
「 かまわない」
顔を上げ、間近に覗いた篁岑の瞳は、慈しみと、かすかな不安と困惑に揺れている。
その視線をそっと逸らして、篁岑はかぶりを振った。
「 わたしは……欲情すると喰らいたくなる」
だから愛しい者を身近に置いてはおけないと、周の真剣さをはぐらかすような自嘲にまぎれて、寂寥がその
面
を過ぎる。
漆黒の真っすぐな髪が、やさしく吹いてくる風に揺れた。
「 あなたの匂いだ」
喰らいたければ喰らえばいい。
空虚な孤独を満たせるくらいの長い時間、彼につきあってゆくもの――周は、それになりたいのだと思った。
篁岑の肩に額をこすりつけ、抱く腕に力を込める。
身体を伸ばし、 篁岑はされるがままになっていた。
どれほど、沈黙のままに時間が過ぎたのか――。
ふいに、周は自分の髪に触れ、背中を滑る指を感じた。
篁岑から漂う丁子の香りがひときわ際立ち、周を包む。
耳元で、低い唸り声が洩れる。
男の顔がゆっくりと周の首筋に近づいていった。
首筋に、その唇を感じる。
唇から暗い闇が広がってゆく。
刹那、周は大きく目を見開き、喘いだ。
やがて、その口元に淡い微笑が過ぎった。
――了
'99.3.14 |