< 3 >
掃き清められた大地に散り敷く花。
節くれた黒い大樹の足元にほとりほとりと落ちる白梅の、無常の姿を映す。
黄変した花弁の陰に、ようやく動き始めた蟻が小さな塚を築いていた。
かすかに疼く記憶を探る。
これではない。
それは分っていた。
たくさんの花を写し、樹木を描いても、たどり着けない、もどかしい彼方の記憶だった。
だが、そこに繋がる道標まで、あと少しで行き着く予感がある。
描きたいのは――。
「 周(あまね)?」
眠たげな春の陽を、薄氷のようにわずかに歪んで反射する硝子の向こうに周の姿を見かけ、和弘は素っ頓狂な声をあげた。
広縁の端からさらに庭に突き出した濡れ縁に腰掛けたまま、スケッチの手を止めて周が振り向く。
「 どこに行ったかと思ったら……。ここで何してるんだよ」
硝子戸をがらりと開けた和弘の声に、苛立ちは隠せない。ようやく決まった周の個展の準備に和弘が奔走しているというのに、当の本人とは連絡が着かず、大学にもアパートにもいなかったのだ。
「 スケッチだけど……」
「 そりゃ、見りゃ分かる。そうじゃなくて――」
「 あぁ、いらっしゃい」
和弘の当惑を、背後の縁に姿を現した篁岑(たかみね)がさえぎった。
一瞬の間のあと、
「 どうも先日は……」
がらりとビジネス用の明るい口調になって、和弘は篁岑に歩み寄る。
「 おかげさまで個展の案内が刷り上りましたので、今日はお届けにあがりました」
和弘は抱えていた鞄から葉書を出し、一枚を篁岑に、もう一枚を濡れ縁から上がってきた周に渡した。
片面いっぱいに周の絵を刷った絵葉書は、そのまま卓上額に入れておきたいような美しいものだった。表面の下半分には、墨痕も鮮やかな毛筆で個展の案内が刷られている。
「 あぁ、これはきれいだ」
「 そうでしょう」
自慢げに和弘が頷く。
周はぼんやりと絵葉書を眺めていた。
この凝った作りの案内状も、この個展に対する和弘の思い入れの表れだろう。
なんの実績もない自分に、ここまで目をかけてくれることを感謝すべきなのは、分かっている。
しかし初日まであと三週間、こうして案内状を手にしてなお、周の内には遠い感覚しかない。
自分はどこかに、何かを置き忘れてしまったのだろうと思う。
描き上げた作品になんの感慨もない。人が下す評価にも興味なぞない。意味が感じられない。
それでも、憑かれたように描き続ける――それだけが生きていく意味だというように。
求めるのは、ただ一つの風景。
そのためだけに描いている。
太い古木を幾重にも取り巻く枝に、見事に咲き誇る花が威容だった。
寄り添うようにたたずむ人影。
大地に、樹影が黒々と落ちている。
――殺さないで。
あれは……。
長い長い歳月を、人世の憂いも喜びも、ただ黙って見つめ続けてきた古木が見せた夢だったかもしれない。
朧に儚く、美しい。だがひどく恐ろしく、それでいて周を捉えて放さない情景。
記憶の深奥に沈み、すくおうと手を伸べても、どうしても届かない。
夢とも
現
つとも、その意味さえも分らぬままに探し求める。
あの花木の周囲だけ流れが違う、そんな気がしてならなかった。
時間は澱み、
刻
から隔てられた根方では、もしかしたら幼い自分が泣いているのかもしれない。
自分はそこに、何かを置き忘れてきてしまったのだ。
だから繰り返し繰り返し、その景色を探して描き続ける。
その間だけが、自分の「生」さえも希薄にしか感じられない周の、わずかにも満たされる時間だった。
だがそれも、描き終えるまでだ。その瞬間に、それは失望へと変わる。
これではない――。
そしてまた、それを探すために描き始める。
残った作品など、どうでもいい。夢の残骸に下される他人の評価も同じだ。
それなのに……と、ふと思う。
絵が篁岑に認められたときは嬉しかった。
あまね――と、滅多に読めない名をすんなり呼ばれたときには、なぜかとても安心した。
これほど目をかけてくれる和弘の、惜しみない賞賛でさえ、心が動かされることはなかったのに。
それが――。
いつでも開けておきます、という篁岑の言葉にすがるように、出会ったばかりの他人の家に、足繁く通う自分がいる。
「 お茶を入れましょう。周さんも一服しませんか?」
柔らかい声音が、取りとめのない思いを断ち切る。
目を上げると篁岑が見ていた。そり静かな眼差しを受け止めかねるように、周は自分の手元に視線を落とす。
「 いえ、僕はこれで。今日は母の面会日なので」
描き散らしたスケッチを手早くバインダーに挟み、道具を取りまとめる。
「 お母さん? どこかお悪いんですか?」
「 篁岑さん、その話は……」
和弘は話題がそのことに及ぶと、きまって周を庇うように口を挟む。周もまた、いつもそれを甘受してきた。
だが今日の周は、自分から言葉を繋いだ。
「 母は
精神
が弱いんです」
和弘が驚いた顔で、周を見やる。
「 もうずっと…僕が小さいころから、ずっとです。弱いから誰かにすがりたくて、すがっては裏切られて、また弱くなる……その繰り返しで」
どうしてそうなってしまったのか――そう問いかけそうになって、周は気づく。
また、だ。
今まで人に話したこともないことや、尋ねる筋合いでもないことを、それこそ、どうしてこの男に告げたくなってしまうのか。
穏やかなこの目がそうさせるのだろうか。
どこか懐かしく、吸い込まれそうな深い瞳の色。
すべての問いの答えを、この男は知っている。根拠のない考えが、一瞬、心をよぎった。
慌ててそれを打ち消しながら、それでも周は言葉を継いでいた。
「 でも……今度は僕のせいだ。僕が母よりも絵を選んだから」
「 周、おまえ何を言っているんだ?」
和弘の苛立った声に、周は我に返った。
急に気恥ずかしさを覚え、そくささと暇乞いをする。
「 じゃあこれで。ありがとうございました」
「 ちょっと待てよ。車で送るから」
和弘の慌てた声が追ってくる。
「 さようなら。また」
そう言って、じっと見つめる篁岑の視線を、周は痛いほど背中に感じていた。
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