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座敷の前で右に折れた廊下は、今は使われていない客用の洗面室と風呂場に続いていた。その間にある板戸は見たところ物入れに思われたが、篁岑がそれを引き開けると、その先は外縁廊になっていた。
二手に岐れた縁廊の一方は帳場の裏手に続いている。
母屋との間は風情のある破風で仕切ってあり、客の視線を自然にさえぎる造りになっている。
そして篁岑は、もう一方の縁廊に周をいざなう。
薄暮が迫っていた。縁廊に灯りはなかったが、空にはまだ黄昏のばら色がほのかに残っており、不自由なほどではない。
行き止まりに見えた先は、小さな別棟へと伸びていた。
先を行く篁岑が静かに語りかける。
「 黒塚の宿って、知っていますか?」
「 ……いえ」
「 昔語りです。『安達の原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか』……人里離れた荒ら家にひとり住んで、一夜の宿を乞う旅人を喰らい続けた鬼の物語」
振り返らない後ろ姿。
肩に乱れる長い髪と、さらりと着流した暗色の衣に、薄く滲みだした闇が揺らめいている。それが彼の言葉に奇妙に合致して、周は我知らず身震いした。
「 山と海に囲まれたこの土地は、行き止まりの場所でもあるのですよ」
抜け道はない。
入ってくる道が出ていく道でもあるのは、今も昔も変わらない。山の間を縫うように通った街道が一本。鉄道ですら、終着駅だ。
「 たどり着いたものの、頼る者もなく、行くあてもない。そんな旅人だけが一夜の宿を求めて、ここに迷いこむ。そのまま消えてしまっても、誰も気に留める者はないような。……ここはそんな黒塚の宿だったんですよ」
右に折れた縁廊はそのまま別棟の廊下に繋がっている。
篁岑が腕を伸ばしてソケットの脇のスイッチを入れると、なんとも頼りない電灯が灯る。
「 その夫婦もそうだった。幼い男の子を連れた似合いの美男美女だったけれど、苦労したのでしょう。二人とも今は生活に倦みきっているようだった」
周の足取りはしだいに鈍っていく。
この先にあるものは、もう知っている。
記憶の残像が、足をすくませた。
それを感じたのか、篁岑が振り向いた。
いつもと変わらぬ静かな表情の上に、電灯の影が揺らめいて、彼を年をも知れぬ老人のようにも見せていた。
漠然と、彼が過ごしてきた歳月の永さを思う。
「 あなたは……お幾つなんです?」
「 ……幾つに見えます?」
「 佐伯さんより少し上。つまり、二十五前後」
「 わたしの肉体年令は二十四ですよ。もっとも心は何百年も歳をとってしまっている」
さあ……と促がすように、周に向って手を差し伸べる。
安堵と不安が、周の内に交錯する。
母屋から渡ってきた縁続きの内廊下は、別棟の内側に入り込んで、部屋をぐるりとめぐっていた。
茶室とおぼしき小部屋と六畳の二間続きで、奥に小さな厨房が備わっている。
間取りは坪庭をめぐる濡縁をはさんで、凹型に配されていた。
そして、周が画絹に描いたままの景色が、そこにあった。
記憶に残るより大きく、見事に咲き誇る枝垂れ桜の威容を、周は息をのんで見つめる。
太い古木を幾重にも取り巻く枝に、花が塊となって枝垂れ咲く。
建物に切り取られた西空の陽は、ほとんど沈みかけていた。
茜色に滲んだ雲の隙間から、光りの欠片が降り落ちて、静かにその庭を満たしている。
幻でしかなかった風景だった。
「 もう染井吉野は終わりですが……本来ならば、この薄紅枝垂れの方が吉野より先に咲く品種だそうです。でもこの庭は西だけしか開いていないためか、咲くのも散るのも遅い」
淡々と、篁岑が告げる。
枝々に繚乱と開く花に、はかなげな風情は欠片ほどもなく、咲いた直後の強靭な力強さが感じられた。
「 やがて月が真上に回ってくる。……彼はここが気に入って、毎夜にこの庭を訪れて描き続けていたよ。ほかには何も目に入らぬように。
そんな男の代わりに働かねばならない彼の妻は、無為徒食の夫に愛想をつかしていた。さりとて、彼女にも行くあてがあるわけでもなく……彼らは、わたしにとっても格好の餌食だった」
静かな 声音の意味を周が飲み込むのを待つように、数呼吸の間があった。
するりと、篁岑が縁を滑り下りる。
素足で庭に下り立ち、花弁が降り散る古木の下にゆったりと歩み寄る彼を、あたりに満ちた黄昏の光りがばら色に彩る。
「 あの日と…同じだ」
昂ぶる感情に、周の呟く声がかすかに震えた。
「 あなたは、立っていた。今と同じように」
手をあげて、古木の根元に散り敷かれた花骸を指差す。
「 そこに……その木の下に、父は倒れていた。血塗れで。あなたは――」
今と同じように、落ち着いた足取りで近づき、倒れ伏した父に手を差し伸べた。
指先から黄昏の光りを集めたような雫が滴り落ちて、その父の身体に降りかかる。
ふんわりと、脈を探るようにその指が触れた。
見る間に、それはカサカサに干涸び、朽ちて果て――。
光りの雫は父の命を移したかのように薄紅に染まって、煌きを増しながら、彼の指先に吸い込まれていくように見えた。
そのとき、風が立ったのだろうか。
地面に触れんと垂れた枝が、薄紅の
帳
のように大きく乱れてしなり、そのあとの光景を遮断し、閉じこめた。
枝垂れた枝が狂舞する。
声一つあげられずに、周はそれを見つめていた。
それは数瞬の出来事だったのかもしれない。
甘やかで、凛と澄んだ丁子の匂いが、息づまるほど強くただよう。
気がつくと、父の身体は花骸に紛れたかのように跡形なく消え、彼だけが淡く笑みを刷いた静かな横顔を見せて、ひっそりと佇んでいた。
ふと、彼が顔を上げた。
穏やかであり静謐であり、だが空虚な瞳は、血の色をしていた。
闇を映したかのごとき、一欠けらの感情も想いも映し出されていない、冷ややかな紅瞳。
吹きつける冷気が、息を潜めて見つめる周の肌を粟立たせ、全身を硬直させる。
その痩身を彩るばら色の光りが、束の間、惜別の金色の輝きに変化し、そして消えた。
不思議な、この世にはない類いの、神をも畏れぬ美しさを放って。
その瞬間、周は魅せられ、囚われてしまったのかもしれない。
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