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長い長いつづら折り坂は、染井吉野の並木がずっと続く。
いつの間にか花開き、すでに盛りも過ぎて散り始めた桜は、柔らかいそよ風にも盛大な花吹雪となって
周
を包む。
強風が吹けば一晩で散り尽くしてしまいそうだった。
途切れることなく降りかかる花弁を見やりながら、ゆっくりと足を運ぶ。
音もなく散る桜を見つめていると、頭の中が霞がかってくるようだ。
このまま倒れて眠ってしまいたい。
そして花弁に埋もれて永遠に眠り続ける――。
誘惑はあまりにも易しげで、睡魔に襲われたように頷いてしまいそうになる。
花霞が途絶えるあたりで、周はその幻想を吐き出すように息を継ぎ、急に斜面がきつくなる坂をふたたび登っていく。
先を見つめる周の目に束の間、物狂おしい色が浮かんで消えた。
金色に、あるいは茜色に輝く虚空。
すでに陽は傾きつつあった。
角度のせいか、空気のせいか、すべて深く、そして透明なばら色がかった光の中にあった。
彼方の建物や寺の大屋根、こんもり繁った木々、その一つ一つがまるで絵筆を加えて際だたせたかのように鮮明だ。
黄昏の太陽の、くっきりとした暗赤色だけが、不気味に禍々しい。
正面に、深く待月亭を包む雑木林が見えてくる。木々のほとんどはまだ裸木だが、枝先は小さく膨らみ、芽吹きの時を待っていた。
待月亭の玄関には小さなオレンジ色の電灯が灯り、いつものように鍵はかかっていない。
かつての帳場らしき一枚板のカウンターの上に、めずらしく一枝の花が生けてあった。
ほころびかけた桜だ。
頼りない灯りに浮かぶ花色に、群れて咲く花霞みの魔性は感じられない。
清楚で寂しげな桜花。
「 周さん?」
物音に気づいた家の主人が奥から姿を現すまで、周は立ち尽くし、じっと見入っていた。
「 どうしました? どうぞお上がりなさい」
「 すみません、こんな時間に」
「 こちらは構いませんが……」
周をうながしながら、
篁岑
は形のよい眉を寄せる。
「 搬入日なのにお見えにならないから、佐伯さんが心配していましたよ。ずっと待っていましたが、様子を見に行くと言って、つい先ほど……。行き違ってしまいましたね」
篁岑が奥の座敷に周をいざなう。先に入り、部屋の灯りをつけると、柔らかな光りの中に、和弘の采配によってきちんと並べられた自分の作品が浮かび上がった。
個展の初日は二日後に控えていた。
「 きれいに仕上がりましたね」
部屋の真ん中には突っ立ったきりで黙り込んでいる周を、篁岑がかえりみた。
「 お母さんは残念でしたね」
「 ……佐伯さんが?」
視線を合わせぬまま、囁くほどの小さな声で周の唇が動く。
「 ええ」
「 怒っていましたよね」
「 ……心配していましたよ。あなたがかなり参っているようだと。ずっと部屋に籠りきりだとか」
紗江子はあの発作のあと、急性心不全であっけなく生涯を閉じた。
ごく質素な葬儀であったが、面倒な手続きの一切を和弘が取り仕切ってくれた。間近に迫った個展の準備に追われながらだったから、かなりの負担をかけてしまっただろう。
そんな彼に、自分は何も返していない。
それどころか――。
「 佐伯さんには、悪いことをしました」
「 新しい絵を描きたいと言ったそうですね」
周は黙って頷いた。
篁岑の視線がすい…と動いて、奥の座敷を示す。その先の壁には、きっちりと軸一つ分の空間が残してあった。
紗江子の葬儀のあと、周はいきなりもう一点絵を描きたいと言って、和弘を困惑させたのだ。
面食らったまま、和弘は反論した。
もう日がなさすぎる。点数は充分足りているし、これが最後ではないのか次の機会にまわせばよい。
周にもそれは分っていた。
だが――今描かねば意味がない。
その思いだけが、止めどなく燃え上がる情火のように、周を突き動かした。
和弘には理由も告げず、いつになく頑強に逆らい、周はアトリエとしている部屋に籠ってしまった。
見捨てられても仕方がない態度だ。それは和弘を苛立たせ、疲れさせてに違いない。
だが彼は、結局は周を許すのだ。描き上がる保障もない絵のために、一番よいスペースまで残して。
もう絵を描く意味もなくなってしまった今となっては、応ずるすべを自分は持たないのだから。
焦れたように降ってきた和弘の口づけの意味すら、自分には分らなかった。
嫌悪はなく、だが、喜びもなかった。戸惑いだけをかすかに意識しただけで、死んでいるように感情は静かだった。
きっと、あの
刻
から、自分の心は凍っていたのだ。
封印されていた記憶が綻ぶにつれ、それは緩やかに溶けていった。
今なら……分ると思う。
そして分ってしまうのが、周は哀しいと思う。応えられない想いならば、なおさらだ。
「 見ていただけますか」
周は、男の目を真っすぐ見つめた。
「 これはあなたのための絵です」
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