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黒塚の宿 4



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 電車で行くという周を、半ば強引に押し込むように和弘は車に乗せた。
 旧街道を郊外に向けて走り出す。
「 どういう風の吹き回しだよ」
 しばらくしてから和弘はぼそりと口を開いた。
「 きみがあんな風に人と喋るのを初めて見たな。知らない間にずい分親しくなったもんだ」
 彼らしくない、苛立ちを抑えるような低い響きを、周は助手席で無言で聞いていた。
「 その分だと、あれから日参していたってところか。俺はきみのために駆けずり回っていたっていうのにね」
 周の膝に抱えられた分厚いスケッチの束に、和弘はちらりと視線を走らせる。
「 そんなに気に入ったわけ? あの家が」
 そしてあの男が、と声に出さずに和弘は呟く。
「 まだだんまりか」
 見返りを求めて動いているつもりではなかった。好きでしていることと納得はしていたが、ときに周の態度に焦れて、苛立ちを募らせることもある。
 さすがに他人の感情に疎い周でも、少なくともその他大勢の連中とは区別もしているし、周なりの誠意を見せてきたはずではあった。周が描いたすべての絵を一任するほどに。
 今も、黙ってはぐらかすつもりなぞない。自分がその答えを持っているのならば。
 周はしばらく考え込む目をしていたが、ついに答えられなかった。
 胸の奥にしこりを吐き出すように、ふうっと息を継いで、和弘は路肩に車を寄せて止める。
「 いいけどね。でもいい加減に馴れてくれてもいいんじゃないの? 長い付き合いなんだし」
 溜め息混じりに和弘がぼやく。
 だが途方にくれた子供のような目と合ったとき、和弘は自分でも驚いたほど突飛な行動に出た。
 身体を捩って、助手席の周の上に静かに体重をかける。
 ほとんど触れるか触れないかという、キス。
 虚をつかれた行動に面食らって、周は目を見張るばかりだった。
 何を求めようとしているのか、捉えきれぬまま、和弘はふたたび唇を重ねた。
  目を見開いた周の白い顔に、かすかな動揺のさざ波が立つ。
 それを見ながら和弘は歯列を割って、舌先で深く口中を探った。
 熱くやわらかな舌に触れると、遅ればせながらの抵抗があった。
  のしかかった胸板の下の身体がかすかに跳ね、唇から逃れようと上体をよじる。
 周の顎を押さえて、さらにゆっくりと舌を絡ませる。
 開いた唇から洩れる湿った吐息は、周の熱を意識させた。
 触れ合った部分から、和弘は無言で言葉を求める。
 もっと熱く、彼の内部で凝ってしまっている何かを溶かしてしまうほど、熱くなればいい――。
 探るような和弘の目と、困惑に揺れる周の眼差しが交錯する。
 その色を消そうと、周の舌に自分のそれをきつく絡めた。
 周は諦めたように瞼を閉ざす。閉じたまま、されるがままに、舌先がためらいがちに反応を返す。
 身内に昂ぶりが生まれ、  餓   かつ えを伴いながら和弘を駆り立てる。
 あと、ほん一押し。
 追い詰めれば、あるいは、きっと――。
 その時、閉じていたはずの暗褐色の目が、自分を見ていることに気づいた。
 和弘の頬に痙攣が走る。それはほんの一瞬で、気をつけなければ誰も――周すら気づくことはないだろう。
 だが、和弘自身が気づいてしまった。
 過去にも現在にも、周は、何も見ず、聞かず、考えようともしないで逃げ続ける。そしておそらくは、これからも逃げ続けるのだろう。不可思議なとりとめのない表情で、何も気づかない振りをして。
 それがもどかしい。腹が立つ。苛立ちは熱く腹のあたりで渦巻く。
 それをなだめるように、和弘は大きく息を吐いて、ゆっくり上体を起こした。
 唇を解放された周が困惑のまま、和弘を眺めていた。
 意識の緩みによって訪れる刹那的快感と、そのあとのやるせなさ……。
 いくら熱情を吹き込んでも、煽っても、周の中で凍てついた凝りがこんなことでほどけるはずがない。
 どだい周に対して、元々持ち合わせのないこだわりや執着など、人並みの感情をうながすことなど無理なのだと、和弘は虚しさの中で達観する。
 フォローの言葉すら告げない和弘に、さすがにこの状況を把握しなければと思ったのか、周がぽつりと呟いた。
「 なに……?」
「 きみには分らないだろうさ」
 ほろ苦く笑って、和弘は車を発進させた。
 それから診療所に着くまでの小一時間を、二人は互いにもの思いに沈み、陰鬱に押し黙ったままだった。


 久しぶりに面会した母の症状は、ずいぶんと落ち着いて見えた。
「 もう家に帰れると思うの。周ちゃん、先生にお尋ねしてちょうだい」
 悪化したときには自分の思い出に潜り込んで、周の顔さえ分らないこともある彼女だが、今日はすこぶる機嫌がいい。
 もっともそれは多分に、病室までついてきた和弘の存在ゆえかもしれない。
 育ちのよい好青年という言葉が和弘はぴったりと当てはまる。
 彼の風貌は女性の視線をたやすく引き寄せるし、それは常に『女』の部分しか持たない彼女となれば尚更だった。
 周の母、笹生紗江子は、母でも妻でもなく、良くも悪くも『女』だった。
 地方の  素封家   そほうか の娘だった彼女が、そのまま普通に嫁ぎ、子供を産み育てる生き方を選択できれば、あるいは違っていたのかもしれない。
 だが無名の日本画家であった周の父と恋に落ちて、実家を出奔したときから、紗江子の人生は変わってしまった。
 勘当の原因となった父が故人となったのは、周が四才のときだ。
 それでも紗江子は実家に戻らず、住み込みの仲居をしながら周を育てた。
 もっとも仕事の邪魔になるからと、周は幼い頃から住み込み先の庭の片隅に放り置かれていたのだが。
 紗江子は何かに追い立てられるかのように恋を重ねた。
 翳りのある美貌は浮名の相手に事欠かなかった。惚れっぽく、恋を見つけてはまた破れる。男をめぐっての不祥事を起こし、いたたまれず土地を出るを繰り返してきた。
 男といるときだけ、彼女は幸せそうだった。
 それだけに恋に破れたときの荒れようはひどく、もともと弱い神経をさらに痛めていったのかもしれない。
 周は、母と酔客の嬌態を見ながら育った。
 子供心に、そんな人間の浅ましい様から目を逸らそうとするうちに、はるかに美しく目に映る庭の花々を、木々の静けさを、周は一人遊びに描き写す術を覚えたのだ。
 たが、周の中に流れる父の血を見たのか、紗江子は絵を描くことだけは許さなかった。父を思い出の中に留めておくことすら、異常なほど嫌悪した。
 だから周が日本画の道に進もうとすることは、彼女への裏切りにほかならない。
 呪詛の言葉を吐きつつ、自分の息子に憎しみすら募らせ、幾度目かの恋の破局も重なって、紗江子の神経症は一気に悪化した。
 今は旧街道を一山越えたところの療養所に入っている。
 なけなしの貯金はその入院費と、周がアパートを借りる資金に消えている。周が美大で絵を描き続けていられるのは、奨学金と、馬鹿にならない量の画材を和弘が提供してくれるからだ。
「 周ちゃん、もうお絵描きなんてしていないでしょうね? 佐伯さんもちゃんと言聞かせて下さいねぇ」
 紗江子は無意識の媚態を和弘に向ける。
 やつれた顔に浮かぶ艶やかな媚のある笑顔は、渡ってきた過去を刻んでいた。
「 そんなことは……。彼には才能がありますから」
「あら、絵はやめたはずよ。約束しましたもの」
 事情を察した和弘が素早く視線を走らせる。
 そこには、いつもの謎めいた無表情があるばかりだった。
「 ……勘違いだよ」
 病室の壁にもたれ、周が静かに言う。
「 何のこと?」
「 そんな約束はしていない」
 首だけねじ向けた紗江子は、なんとも言えない表情で絶句していたが、やがて口元を引き攣らせて言葉を絞りだす。
「 ……絶対に許さないって、言ったわ」
 周の顔がわずかに曇る。その唇がもの言いたげに震えたが、すぐに横に引き結ばれた。
「 ご心配いりませんよ。今度、彼の個展をやるんです。ご退院が間に合うとよろしいんですが」
  病院の立場を憂慮して、和弘が穏やかに諭す。
「 ほんとう?」
「 もちろんです」
 和弘が鞄から取り出した案内状を、彼女はこの上ない愛想のよさで受け取った。
 本当はそんなものに興味なぞないだろうに、気に入りの男の前では自然と媚を売ってしまう母を、周は苦々しく眺める。
 おざなりに葉書に走らせていた母の目が、ふいに大きく見開かれた。
「 待月…亭……?」
 乾いた唇が歪んで、かすれた声を呆然と呟く。
 ありえないものを見てしまったという驚愕だった。
 次の瞬間、紗江子は葉書を放り出した。
「 嫌っ……!」
 鋭い悲鳴が病室に響き渡った。
 紗江子は引き攣った顔を両手で覆い隠した。ベッドの上で丸くなった身体が、ガクガクと震えた。
 慌てて彼女を抱き起こそうと伸ばした和弘の手が、激しい勢いで振り払われる。
 暴れる彼女を取り押さえようとする和弘を、誰と紛れているのか、必死に頭を振り、その拘束を振りほどこうとする。
 細い身体に異様な力が込められていた。
 怯えと恐怖ばかりに光る紗江子の目に、先ほどまでの好意は微塵もない。
「 お願い……やめて……」
 とぎれとぎれに口走るあらぬ言葉。
 呆然と見つめる周の耳に届いたそれは、たどたどしい哀願だった。
「 殺さないで……!」
「 周、早く先生を!」
 立ちすくんでいる周を一瞥して、和弘は緊急用のコールを押す。
 駆けつけた看護婦によって、二人の廊下に追い出された。
 車でのわだかまりなどすっかり吹き飛んだ態で、和弘はかたわらで身じろぎもしない周の顔を心配そうに覗きこむ。
 無表情に凍てついた、蒼白の顔。
 いつもはあまり表情を映さない暗褐色の目が、異様な輝きを放ち、何もない空間を見据えている。
「 大丈夫かい?」
 その声は周の耳には届かなかった。母の怯えきった声だけが、繰返し繰り返し、頭の中に響いていた。
「……思い出した」
 周がひそりと呟いた。

 ――殺さないで。

 あれは、母の声だ。
 まだ若く美しい顔には恐怖が凝って、般若のように茜色に染まっていた。
 必死に哀願する震えた声。
 母の前に立っている人影。
 和弘が怪訝な顔で見つめているのも気づかず、周はひたすら遠い記憶を探る。
 夢のように流れる花弁。
 足元に散り敷く、紅い花。
 いや――紅というより  深緋   こきひ に近い花色だった。
 刹那、目の奥で眩い光景が弾ける。
 周は固く目を閉ざした。
 違う……あれは花じゃない。
 深緋に塗れた、あれは――。
「 周……? おい、きみまで真っ青じゃないか」
 和弘が呼ぶ自分の名すら他人のもののように感じて、周は必死に  頭   かぶり を振った。
 丁子の香りを、確かにあの記憶は放っていたと思う。





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