それは、ほんの数呼吸の間だ。だが樹音が、山吹の息の根を止めるには充分な空白だった。 目を開いた山吹の白金が最初にとらえたのは、清楚でつつましやかな樹音の容貌――どこか醒めた、しかし、ふわりと微妙にあたたかみのある笑顔だった。 「なぜ殺らなかった?」 「さあ……」 樹音は曖昧に微笑んだ。返事をはぐらかしたわけではないのは、その目を見れば分かる。 白い手には、さきほど山吹が取り落とした剣が握られている。 「どうしていいのか、分からなくなったんです。いえ、心というものを持ってから、ずっと迷ってばかりで……。憎いのと慕わしいのと、諦めと執着と、あいなかばする想いが、どうしても勝負をつけてくれないのですもの」 ちらりと手のなかの剣を見やり、枝葉の間から覗く宵待ちの月を仰いで、静かに呟いた。 「おん身様への想いがつのって、こんなところまで来てしまった。それなのに、ついに、私を思いだしてくださらない」 「むこうで、なにか約束でもしていたか」 むごい質問だった。だが、少年はなにも答えず、小首をかしげる。 意識してか無意識か、わずかに流れた視線がなんともいえない艶かしさをふくんで、山吹の目まで届いた。 「おまえの界に帰ったらどうだ? 破翔廊の管理責任者には俺が話をつけよう。きつい咎めはまぬがれよう」 「お断わりします」 婉然と、しかしきっぱりと言ってのける。
「おん身様こそ、さきほどはなぜ腰の物を使わなかったんです? その短刀を使えば、もっと早くぬけられたはずなのに」 「殺さないで帰してくれと、約束させられた」 「だれに……。あっ」 依頼者に思いあたったのか、樹音が小さな声をあげた。やわらかな眉がきゅっと鋭くひそめられる。 「どちらにしても、後味の悪い終わり方はしたくない」
「……それは、おん身様の事情」 桜色の唇に、緩やかに微笑がのぼっていく。手に握り締めた剣がゆっくり持ち上がり、切っ先を山吹にむけた。 「よせ」
「いいえ。勝負がつかぬ心ならば……」 樹音の唇がかすかに動いてなにか囁いたが、ざわりと騒いだ葉ずれの音に消され、山吹のもとには届いてこなかった。少女のみまごうばかりの白い指に、その大ぶりの剣は不似合いだった。重量のあるそれを、楽々と頭上に振りかざしたのは、もっと不釣り合いだった。 とっさに山吹は右腰に吊した短刀を引きぬく。細い刀身は月光を封じこめたかのような輝きを持ち、柄には精緻な装飾がほどこされている。狩人のなかでも、山吹だけが扱える、異界のものだ。 白刃が軽く一旋する。 一合ごとに火花が飛ぶ。 しかし真剣な形相は少年の方だけで、山吹の面にはもてあましたような困惑がにじみでていた。 その顔にもう一度笑ってみせて、樹音は椿の根を踏みきった。 ふうわりと。 ゆったりした衣が風をはらみ、黒髪が後方へ流れる。 意のままに伸びあがる根を軽々とたどり、宙を翔けて、少年は、草叢を分けてたたずむ人影の後ろ姿に追いついた。 いつからそこにいたのか――春風だった。 はっと、春風が振り返るところへ、振りかぶった剣が落ちていく。 山吹が翔んだ。 樹精は凍りついたように剣を振りかざしたまま、春風を見つめ、やがてうっすらと唇に、穏やかな、満足気な笑みを刻んだ。 その身体がゆらりと揺れる。樹音のすぐ前に山吹の長身があり、短刀の切っ先が吸いこまれ……。
樹音の胸に、白刃の残光がくっきりと輝いていた。 意識によって保たれる精だ。肉体をささえる意識はわずかの損傷も認めない。 だが山吹の刀身は、意識までも深い瑕疵をあたえうる。 樹音は緩慢に、己れの身に刃をかけた者へ視線をめぐらせた。唇がなにごとか囁いたが、声は聞きとれなかった。 傾いてくる樹音の身体を、山吹は反射的に抱きとめ、華奢な身体を引きよせる。 見開いた山吹の黒瞳が、炯々と白金に燃える。全身からあふれる輝く光が樹音を包み、飲みこんでいく。 典雅な面に、清冽な微笑が波紋のようにひろがった。 樹精はしだいに輪郭をなくし、身体の重みを失っていく。 そして、ぼんやりと薄くなり、透明になり、消え去った。 一陣の風が、花木の上を駆けぬけた。 ため息を吐くように葉をふるわせ、落涙するごとく花を散らせる。 山吹の心に同情の念がわいた。人を想うその一途さが、哀れだった。
花木に近づき、右手を幹にあてる。異界の花は風に花弁をのせ、乱れ舞うように、樹下にたたずむ男に降りかかる。 深紅の花の骸が、周囲を埋めつくしていく。 唐突に、枝鳴りが絶えた。 山吹の足元に、一枝がぽとりと落ちた。なにかを託すかのように。 拾いあげ、目を上げると、異界の椿はすべての花を落とし、深緑の葉をも失い、むざんにも灰褐色の朽ち木に変わり果てようとしていた。 深紅の夢幻のひとときは、実際には数瞬のできごとにすぎなかっただろう。 春風は呪縛を解かれた者のように、深く息を吐くと、枯れた花木になおも寄り添っている山吹のもとへと歩みよった。 「行ったか」 どこかのんびりとした声音で尋ねてくる。 山吹が振り返って見たその白晢には、淡い翳が刻まれていた。 「……知っていたのか」 「樹精はなぜ条約を犯してまで界を渡ったか。永遠に近い命を引きかえるほど意味のある行動とは思えぬし、挑発はすべておまえに向かっていた。なれば答えは簡単だ」 「知っていて、黙っていたのか」 春風の視線の先で、山吹が呟いた。軽く睨んだ黒瞳の中が、かすかな白金に輝いているのは、異界の残滓か、ひそやかに降りそそぐ月光を映したものか。 「あやつと手をたずさえて行くのも一興だとは思ったが……。おまえの考えていることくらい分かるさ。乳を分け合って育って以来のつきあいだ」 「たいした自信だな。そんなに俺を信じていいのか?」 「行く気になればそなたは行くだろう。だれにも止められまい」 「おまえにもか?」 「私は止めぬさ。人の心を無理につなぐことなどできぬことくらい知っている。それに……」 春風が皮肉な笑みをひらめかせる。 「そなたに野郎と道行きする趣味はない、だろう?」 皮肉に本心をまぎれこませる見慣れた表情に、山吹は、ふん、と鼻先で笑い返した。 「しかし樹精を吸収するとは、そなたも無茶をする。それではそなたの方が負荷が大かろう。刀を使えばもっと易く決着はついたものを」 春風はいつからあの場所にいたのか。 戦いの最中に、一瞬だが、山吹は意識を閉ざした。春風がそのことを知らぬことを祈る思いで、山吹は曖昧に笑った。 「借りがあったのさ」 訝しげな眼差しをむけたが、春風はひとつため息をつき、 「その甘さがいつか命取りにならねばよいがな」 「人のことを言える立場か。無理無茶無謀はおたがいさまだ」 「私にはそなたがいる」 どこか誇らしげに告げられ、絶句する山吹に、乳兄弟はほんのわずかにうなずいてみせる。 「違うか?」 緩やかに、春風の頬がほころんだ。
これは、事実上の告白ではないか。さすがの山吹もしばらく呆気にとられたが、春風の口元に、悪戯をしかける悪童のような表情が浮かんでいるのに気づき、小さく肩をすくめていなす。 「皇子は?」 「宮に送った。廃人同様までいかぬが、筋道だった話はできまい。内裏を丸め込む算段をせねばならぬのが、面倒だな」 なんの感慨もふくめず言い放ち、ふと、山吹の手に視線を落とす。 「枝をよこせ。破翔廊の管理すら満足にできない昼行灯に託してやる。己れの界にてふたたび根を下ろし、花を咲かせるだろう」 自分の手元に置いてやるのが、せめてもの手向けではないかと、一瞬の躊躇を見せた山吹を、穏やかな表情がうながす。 「その方がいいのさ。無垢にかえったとしても、そなたの情けに引き寄せられるともかぎらぬ。未練がましくこだわっても、苦しいのはそやつの方だ。きっぱり忘れた方がよい」 「……そうだな」 山吹はいまにも朽ち倒れそうな枯れ木を見やった。しばらく遠くをめぐらすような眼差しをそそいでいたが、 「やっと、思いだした」 「うん?」 「樹音だ。たった今まで、どう考えても、思いあたることがなかったのだが――」 「それは……また薄情なことだな」 「覚えているはずがない。会ったのは器に凝おる前の精だ」 「ほう?」 「呑気で結構だが、その場にはおまえもいたぞ」 一度たりとも望んで異界へ渡ったことはない。 何度行っても慣れることのできない違和感は、常につきまとう。
――あれは幾度目の訪問だろう。 自分を呼ぶ乳兄弟の光を求めて迷いこんだのは、閉ざされた森だった。 花を咲かせても鳥は来ず、美しさを愛でてくれる者も訪れない。その森深くで、山吹は乳兄弟を見つけた。まだ生き物が集う苑であった時代の、最後のなごりのような花木だった。 疲れた精神に、深紅の花の美しさがしみた。 (今宵はここで休もう) 幹に触れ、呼びかけた山吹に、春風は樹下から引き離しつつ、首をふった。 (やめたほうがよい。古い樹木には精が棲むものだ。とくに美しい樹には。長居せぬ方が賢明だ) 立ち去るのに未練を見せる山吹をうながした。 (行こう、精が目覚めぬうちに) その声に引きずられるようにして、山吹は花木から離れた。 花とて、愛に飢えることもある。 己れを愛でてくれた山吹を慕い、引き離す春風に薄情を感じたのかもしれない。
「そんなことも、あったか」 春風の両眼にだけ、苦笑の色が浮かんで、すぐに消えた。 「花の怨みを買ったといえば、風流ではあるが」 「思えば、樹音の歳のころは、おまえと俺があやつに会ったのと同じ頃合いだった。我々の姿を模したのかも知れんな」 「覚えていたところで、確たる証しにはならぬ」 あっさりと言い切った春風に、山吹は黙ってうなずく。そのたくましい首筋に、春風の繊手がそっと絡まった。 「おい……」 「私のために残ったのだろう? おまえ以外の精気がどれほど負担になるか知っているはずだ。ましてやあの皇子だぞ」 試すような探るような深い眼差しが、山吹をとらえていた。唇にはあの悪戯めいた表情がただよっている。 「……身勝手なやつだ」 憮然とする山吹にかすかに笑いかけて、春風はためらいもなく唇をよせる。 ほっそりした長身の背をまわした腕でささえながら、山吹は春風を受け入れた。 その深い黒瞳は、虚空に浮かぶ宵待ちの月を映している。
――了 '98・4・11 |