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太陽の西 月の東

         
宵闇月

<1>   <2>

<1>

 丈よりも高い草のむこうに濃い闇がわだかまっている。
 月明のもと、勝手に枝をのばした桐や柏の林に囲まれるように、楼閣の屋根がちらりと望めた。
 かつては壮麗な瓦屋根だったのだろうが、土と草に覆われ、なかば朽ち落ちて見るかげもなく、闇色に沈んでいる。
 濃密な異界の匂いの残滓を追ってたどり着いたこの場所に、山吹は虚を突かれた気分だった。瓔珞荘のある遊里から二坊ほどしか離れていなかったのだ。
 冷たい風が吹きわたって、梢が鳴いた。風は甘く饐えた芳香を、かすかにふくんでいた。
 愛馬を手近な松の木に繋ぎ、山吹はけもの道のような路曲の痕跡に踏み入っていく。
 研がれた気迫が、全身から滲みでている。
 門の形はすっかりなくなり、門柱の一方だけが空にむかってのびている。その脇をすりぬけるように草叢を分ける。野放図にのび、低く垂れ下った若木の枝を払いのけ、前方の視界がひらけた刹那――。
 山吹はそこに現われた光景に目を奪われた。
 中央に一本の花木が根をおろしている。
 深い緑の葉の間に深紅の大輪の花をたわわにつけた、見上げるばかりの古木だ。ゆったりと幹をくねらせ、なよやかに、だが大きく枝を広げ、驕慢ささえも感じさせる。この木に遠慮してか、周囲には目立った木もなく、わずかな下草だけの地面が大きく広がっていた。
 蒼白い月の雫を受けて、花弁の先がきららに輝く。
 異界より呼び寄せられた椿は強い芳香を放ち、どこかまがまがしい華やかさが漂っている。
 山吹は、圧倒されたように声もなくそれを眺めた。
「お待ちしておりました」
 花木の陰から、少年の姿がおぼろに浮かびでる。桜色の口元が、にこりと微笑の形になった。
「それが、おまえか」
 花木を見やる。驕慢という形容が似合う、妖艶華麗な花だ。己れ自身の盛りの春を奢り、酔ってしまえるほどの自信と傲慢さが、精を生み出したのかもしれない。
 それに応えるように、山吹の足元に、ほとり、と八重咲の花が落ちてくる。
「やっとお会いできました」
 長い歳月の果てに『精』と凝り固まった樹音は、あいかわらず優雅に礼を執ってみせる。それに対した山吹の態度はひどく素っ気なかった。
「そのわりにはずいぶん逃げまわっていたな」
「そんなつもりはありませんでした。ただ春風殿を少し見誤っていたようです……。思っていたよりも行動が早い。それとも、さすが我が同胞と讃えるべきでしょうか」
「言うな……、おまえと一緒にしてもらっては迷惑だ」
 きびしい非難の視線を向けられた樹音が、はねかえすように真っすぐに山吹の顔を見返す。
「なんのために界を超えた」
「あなたに会いたくて……」
 それは、せつない告白だった。
 婉然たる微笑で愛を囁き、少年が数歩踏みだす。
 それを山吹は、眼光で制止した。
「なれば、なぜ里見を狙った?」
「でも、無事にお返ししたでしょう?」
 なのに、なぜ自分が責められるのか分からない――樹音は、傷ついた子供のような瞳を向ける。
「喰っていないんだな」
「だって……」
 不思議そうに首をかしげる。
「だってそんなことしたら、あなたは私を嫌うでしょう?」
「ただ嬲ってみただけか……」
「春風が苦しめばいいと思っただけですもの。いくらおん身様でも、異界に取り込まれてしまったものを癒すことはできないでしょう?……そんな恐ろしい顔をしないでください。手駒にすることも考えたけど、あなたを敵にまわしてしまう。だから我慢したんですもの」
 すでに充分、敵対関係にあるはずだが、樹音の意識にははなはだしく相違があるらしい。
「……そして、俺と組んで春風を亡きものにするか」
 苦笑をくっきりと唇の端に刻んではいたが、なんの感情もない、容赦のない冷徹そのものの声だった。
 一蹴されて、樹音の白面が、かっと血の色をのぼらせる。
「やむを得ませぬ。あれは私の邪魔をする」
 きらりと上がった双眸が、花の露をふくんでいた。
「あなたを喰いつくし、いずれあなたをも、穢らわしいアヤカシにしてしまう 。あれは、それだけの力を秘めているはずですもの。おん身様を無傷で手に入れるためには、消えていただくしかありません」
「それは困る」
「なぜです?」
「ここはおまえのいる場所ではない」
 以前とかわらぬ声ではあったが、ここではじめて山吹の声に微妙な変化があらわれた。
 かろうじて同情とよんでもいいような、おざなりなものだったが、それでも感情らしきものが混じる。
「でも、あなたの場所でもないでしょう?」
 声の変化に勇気づけられたかのように、樹音は笑みを浮かべ、さらに言いつのった。
「あなたも異界の一部を宿しているのだから。人の身勝手に、どうして手を貸すんです?ほかの生き物から滋養を取るのは人も同じではありませんか。人に食べ物が必要なように、私には精気が必要で、おん身様には――」
「たしかに俺はおまえの飢えを癒すこともできよう。おまえは俺に滋養を与えられるらしい」
「ならば……」
「断る」 
 きっぱりと首をふったが、山吹の声に同情の色が濃くなる。
「おまえは春風ではない」
 少年の面から、見る見る生気がひいていった。蒼ざめた頬に、きつく噛み締めた唇だけが色をそえる。
 ざわ、と頭上の枝が騒いだ。
「では、いたしかたありませぬ」
 悲しげに顔を顔を曇らせ、ため息まじりの声とともに樹音の右手が、
ふわりと大きく円を空に描いた。
 なにを――と、目を見はった山吹の前の地面が、細くひび割れてむくりと持ち上がる。
「力づくになりますがお許しを」
 黒々とした土をこぼして、鎌首をもたげたのは木の根だった。一本や二本ではない。しっかり地面に根付いた異界の椿の太い根が、いっせいにうねり、うごめき、山吹の前後に伸びあがったのだ。
 身をひるがえして、初手はかろうじて躱したが、逃げのびたところへ伸びた根が足に巻きつく。
 とっさに剣を抜き放って、斬り落とす。
 樹木が悲鳴をあげるはずがない。だが、悲鳴としか表現しようのない軋みが、あたりに響きわたる。
 音にひるんでいる余裕はなかった。さらにうねうねと伸びあがる根が、追いすがる。
 山吹の目は、樹音をとらえていた。
 躍りかかってくる根の先端を避け、その華奢な身体を押さえこむ。首筋に腕をまわし、一方の手の剣を胸元に突きつけて動きを封じる。
 ひるんだように、根の動きがとまった。
 身体の自由を奪われながら、だが、樹音は勝ち気な眼差しをむける。首にかかる山吹の腕に、ふわりと手をかける。
 あらがうつもりではないのか、その手に力はこめられなかったが、触れている部分に熱っぽい痺れを感じ、山吹は素早く身体をはがす。
「私の力、ご自身でお確かめください」
 訝しげに眇めみた一瞬、山吹の右手首を椿の枝がぴしりと打った。
 右腕全体に激しい痺れが走り、剣が手をはなれて落ちる。
 さわさわと枝を鳴らし、夜目にも鮮やかな深紅の花が降ってくる。
 一段と強く濃厚な芳香が脳髄にしみ込みこんでいく。
 樹音が造りだす異界が、いいようもない不安と本能的な恐怖が山吹を圧しつぶそうとする。
 幻惑が山吹をとらえる――。
 見えない糸に絡め取られるごとく、あらがうこともできない。
 樹音が魔性の笑みを浮かべて、己れを見つめている。
「私から逃げられますか」
 触れんばかりに近づいた形のよい唇が、誘うようにかすかに開かれ、甘い吐息が囁いた。細い指先が山吹の唇をなぞる。
 奔流のように流れこむ、異界の力。
 たじろいだ、一瞬の間隙に送りこまれたのは、夢、だろうか。

――さわさわ、さわさわ……。
 絶え間なく続いている葉ずれの音。
 淡い金色の光が降り注ぐ。
 乱舞する艶やかな花。

 取りこまれまいと、山吹はかたく目を閉じて、全身で拒絶する。
 激しい嵐がぶつかり合うような負荷だった。心臓にきりりと鋭い痛みが走る。
「今度は耐え切れません」
 楽しげな響きに、山吹が目を見開いた。
「好きにはさせぬ」
 白金の虹彩があらわれた。体内深く宿した異界が放たれる。
「無駄ですってば」
 樹音の唇が山吹の唇をおおう。貪る。
 淫靡な瘴気が口腔から注がれる。身の内から感覚が研ぎ澄まされ、肌に触れる濃密な香りにさえ、過敏に反応する。精神をこじ開けて、共鳴をうながす。
「私を受け取ってください」
 甘やかで切ない、響き。
 山吹の深奥で飢えが目覚める。渇きを激しく意識する。

 ――守るべきものが、あったはずだ。

 真闇の回廊を超えた彼方から、ともに帰ってきた半身。
 その記憶が、飲みこまれようとする山吹を、かろうじてつなぎ止めている。
 艶やかな花が、はかなげに揺らめく。手にすれば、確実に飢えが満たされる。
 指がそれに触れそうになった、刹那――。
 少年の瞳の中を、絶望と諦めが走りぬけたのを山吹は見なかった。
 山吹は己れの意識を閉ざした。

next

<2>

 それは、ほんの数呼吸の間だ。だが樹音が、山吹の息の根を止めるには充分な空白だった。
 目を開いた山吹の白金が最初にとらえたのは、清楚でつつましやかな樹音の容貌――どこか醒めた、しかし、ふわりと微妙にあたたかみのある笑顔だった。
「なぜ殺らなかった?」
「さあ……」
 樹音は曖昧に微笑んだ。返事をはぐらかしたわけではないのは、その目を見れば分かる。
白い手には、さきほど山吹が取り落とした剣が握られている。
「どうしていいのか、分からなくなったんです。いえ、心というものを持ってから、ずっと迷ってばかりで……。憎いのと慕わしいのと、諦めと執着と、あいなかばする想いが、どうしても勝負をつけてくれないのですもの」
 ちらりと手のなかの剣を見やり、枝葉の間から覗く宵待ちの月を仰いで、静かに呟いた。
「おん身様への想いがつのって、こんなところまで来てしまった。それなのに、ついに、私を思いだしてくださらない」
「むこうで、なにか約束でもしていたか」
むごい質問だった。だが、少年はなにも答えず、小首をかしげる。
 意識してか無意識か、わずかに流れた視線がなんともいえない艶かしさをふくんで、山吹の目まで届いた。
「おまえの界に帰ったらどうだ? 破翔廊の管理責任者には俺が話をつけよう。きつい咎めはまぬがれよう」
「お断わりします」
 婉然と、しかしきっぱりと言ってのける。
「おん身様こそ、さきほどはなぜ腰の物を使わなかったんです? その短刀を使えば、もっと早くぬけられたはずなのに」
「殺さないで帰してくれと、約束させられた」
「だれに……。あっ」
 依頼者に思いあたったのか、樹音が小さな声をあげた。やわらかな眉がきゅっと鋭くひそめられる。
「どちらにしても、後味の悪い終わり方はしたくない」
「……それは、おん身様の事情」
 桜色の唇に、緩やかに微笑がのぼっていく。手に握り締めた剣がゆっくり持ち上がり、切っ先を山吹にむけた。
「よせ」
「いいえ。勝負がつかぬ心ならば……」
 樹音の唇がかすかに動いてなにか囁いたが、ざわりと騒いだ葉ずれの音に消され、山吹のもとには届いてこなかった。少女のみまごうばかりの白い指に、その大ぶりの剣は不似合いだった。重量のあるそれを、楽々と頭上に振りかざしたのは、もっと不釣り合いだった。
 とっさに山吹は右腰に吊した短刀を引きぬく。細い刀身は月光を封じこめたかのような輝きを持ち、柄には精緻な装飾がほどこされている。狩人のなかでも、山吹だけが扱える、異界のものだ。
 白刃が軽く一旋する。
 一合ごとに火花が飛ぶ。
 しかし真剣な形相は少年の方だけで、山吹の面にはもてあましたような困惑がにじみでていた。
 その顔にもう一度笑ってみせて、樹音は椿の根を踏みきった。
 ふうわりと。
 ゆったりした衣が風をはらみ、黒髪が後方へ流れる。
 意のままに伸びあがる根を軽々とたどり、宙を翔けて、少年は、草叢を分けてたたずむ人影の後ろ姿に追いついた。
 いつからそこにいたのか――春風だった。
 はっと、春風が振り返るところへ、振りかぶった剣が落ちていく。
 山吹が翔んだ。
 樹精は凍りついたように剣を振りかざしたまま、春風を見つめ、やがてうっすらと唇に、穏やかな、満足気な笑みを刻んだ。
 その身体がゆらりと揺れる。樹音のすぐ前に山吹の長身があり、短刀の切っ先が吸いこまれ……。

 樹音の胸に、白刃の残光がくっきりと輝いていた。
 意識によって保たれる精だ。肉体をささえる意識はわずかの損傷も認めない。
 だが山吹の刀身は、意識までも深い瑕疵をあたえうる。
 樹音は緩慢に、己れの身に刃をかけた者へ視線をめぐらせた。唇がなにごとか囁いたが、声は聞きとれなかった。
 傾いてくる樹音の身体を、山吹は反射的に抱きとめ、華奢な身体を引きよせる。
 見開いた山吹の黒瞳が、炯々と白金に燃える。全身からあふれる輝く光が樹音を包み、飲みこんでいく。
 典雅な面に、清冽な微笑が波紋のようにひろがった。
 樹精はしだいに輪郭をなくし、身体の重みを失っていく。
 そして、ぼんやりと薄くなり、透明になり、消え去った。
 一陣の風が、花木の上を駆けぬけた。
 ため息を吐くように葉をふるわせ、落涙するごとく花を散らせる。
 山吹の心に同情の念がわいた。人を想うその一途さが、哀れだった。
 花木に近づき、右手を幹にあてる。異界の花は風に花弁をのせ、乱れ舞うように、樹下にたたずむ男に降りかかる。
 深紅の花の骸が、周囲を埋めつくしていく。
 唐突に、枝鳴りが絶えた。
 山吹の足元に、一枝がぽとりと落ちた。なにかを託すかのように。
 拾いあげ、目を上げると、異界の椿はすべての花を落とし、深緑の葉をも失い、むざんにも灰褐色の朽ち木に変わり果てようとしていた。
 深紅の夢幻のひとときは、実際には数瞬のできごとにすぎなかっただろう。
 春風は呪縛を解かれた者のように、深く息を吐くと、枯れた花木になおも寄り添っている山吹のもとへと歩みよった。
「行ったか」
 どこかのんびりとした声音で尋ねてくる。
 山吹が振り返って見たその白晢には、淡い翳が刻まれていた。
「……知っていたのか」
「樹精はなぜ条約を犯してまで界を渡ったか。永遠に近い命を引きかえるほど意味のある行動とは思えぬし、挑発はすべておまえに向かっていた。なれば答えは簡単だ」
「知っていて、黙っていたのか」
 春風の視線の先で、山吹が呟いた。軽く睨んだ黒瞳の中が、かすかな白金に輝いているのは、異界の残滓か、ひそやかに降りそそぐ月光を映したものか。
「あやつと手をたずさえて行くのも一興だとは思ったが……。おまえの考えていることくらい分かるさ。乳を分け合って育って以来のつきあいだ」
「たいした自信だな。そんなに俺を信じていいのか?」
「行く気になればそなたは行くだろう。だれにも止められまい」
「おまえにもか?」
「私は止めぬさ。人の心を無理につなぐことなどできぬことくらい知っている。それに……」
 春風が皮肉な笑みをひらめかせる。
「そなたに野郎と道行きする趣味はない、だろう?」
 皮肉に本心をまぎれこませる見慣れた表情に、山吹は、ふん、と鼻先で笑い返した。
「しかし樹精を吸収するとは、そなたも無茶をする。それではそなたの方が負荷が大かろう。刀を使えばもっと易く決着はついたものを」
 春風はいつからあの場所にいたのか。
 戦いの最中に、一瞬だが、山吹は意識を閉ざした。春風がそのことを知らぬことを祈る思いで、山吹は曖昧に笑った。
「借りがあったのさ」
 訝しげな眼差しをむけたが、春風はひとつため息をつき、
「その甘さがいつか命取りにならねばよいがな」
「人のことを言える立場か。無理無茶無謀はおたがいさまだ」
「私にはそなたがいる」
 どこか誇らしげに告げられ、絶句する山吹に、乳兄弟はほんのわずかにうなずいてみせる。
「違うか?」
 緩やかに、春風の頬がほころんだ。
 これは、事実上の告白ではないか。さすがの山吹もしばらく呆気にとられたが、春風の口元に、悪戯をしかける悪童のような表情が浮かんでいるのに気づき、小さく肩をすくめていなす。
「皇子は?」
「宮に送った。廃人同様までいかぬが、筋道だった話はできまい。内裏を丸め込む算段をせねばならぬのが、面倒だな」
 なんの感慨もふくめず言い放ち、ふと、山吹の手に視線を落とす。
「枝をよこせ。破翔廊の管理すら満足にできない昼行灯に託してやる。己れの界にてふたたび根を下ろし、花を咲かせるだろう」
 自分の手元に置いてやるのが、せめてもの手向けではないかと、一瞬の躊躇を見せた山吹を、穏やかな表情がうながす。
「その方がいいのさ。無垢にかえったとしても、そなたの情けに引き寄せられるともかぎらぬ。未練がましくこだわっても、苦しいのはそやつの方だ。きっぱり忘れた方がよい」
「……そうだな」
 山吹はいまにも朽ち倒れそうな枯れ木を見やった。しばらく遠くをめぐらすような眼差しをそそいでいたが、
「やっと、思いだした」
「うん?」
「樹音だ。たった今まで、どう考えても、思いあたることがなかったのだが――」
「それは……また薄情なことだな」
「覚えているはずがない。会ったのは器に凝おる前の精だ」
「ほう?」
「呑気で結構だが、その場にはおまえもいたぞ」
 一度たりとも望んで異界へ渡ったことはない。
 何度行っても慣れることのできない違和感は、常につきまとう。

――あれは幾度目の訪問だろう。
 自分を呼ぶ乳兄弟の光を求めて迷いこんだのは、閉ざされた森だった。
 花を咲かせても鳥は来ず、美しさを愛でてくれる者も訪れない。その森深くで、山吹は乳兄弟を見つけた。まだ生き物が集う苑であった時代の、最後のなごりのような花木だった。
 疲れた精神に、深紅の花の美しさがしみた。
(今宵はここで休もう)
 幹に触れ、呼びかけた山吹に、春風は樹下から引き離しつつ、首をふった。
(やめたほうがよい。古い樹木には精が棲むものだ。とくに美しい樹には。長居せぬ方が賢明だ)
 立ち去るのに未練を見せる山吹をうながした。
(行こう、精が目覚めぬうちに)
 その声に引きずられるようにして、山吹は花木から離れた。
 花とて、愛に飢えることもある。
 己れを愛でてくれた山吹を慕い、引き離す春風に薄情を感じたのかもしれない。

「そんなことも、あったか」
 春風の両眼にだけ、苦笑の色が浮かんで、すぐに消えた。
「花の怨みを買ったといえば、風流ではあるが」
「思えば、樹音の歳のころは、おまえと俺があやつに会ったのと同じ頃合いだった。我々の姿を模したのかも知れんな」
「覚えていたところで、確たる証しにはならぬ」 
 あっさりと言い切った春風に、山吹は黙ってうなずく。そのたくましい首筋に、春風の繊手がそっと絡まった。
「おい……」
「私のために残ったのだろう? 
 おまえ以外の精気がどれほど負担になるか知っているはずだ。ましてやあの皇子だぞ」
 試すような探るような深い眼差しが、山吹をとらえていた。唇にはあの悪戯めいた表情がただよっている。
「……身勝手なやつだ」
 憮然とする山吹にかすかに笑いかけて、春風はためらいもなく唇をよせる。
 ほっそりした長身の背をまわした腕でささえながら、山吹は春風を受け入れた。
 その深い黒瞳は、虚空に浮かぶ宵待ちの月を映している。


 ――了
                                              '98・4・11





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