本館 >JUNEちっくわーるど
太陽の西 月の東


月冴ゆ




「御方様には、どなたがいらしても上げぬようにとの仰せでございますので……」
 瓔珞荘では、女将が大慌ての様子で春風の訪いを受けていた。
 愛想笑いを浮かべつつ言いつのる女将の口を、
「心配はいらぬ」
 清雅な微笑がやわらかく封じる。
「先方は承知しておいでだ。私を招いたのはご自身ですから」
「え――?」
 なんの裏付けももない言葉をあっさり信じるわけにもいかないが、世慣れた女将は、 素早く計算を働かせた。
 相手はともに貴人であるが、このところ流連(いつづけ)の皇子の振る舞いにはいささかならず困惑している。最上の部屋がふさがっているだけなら、金銭の問題だからなんとでもなる。しかし風流も粋も楽しもうともせず、皇子が求めるものは一時の肉欲だけだ。二流どころかそれ以下の扱いと変わらぬと、なにより格式を誇る妓楼としての矜持に、たえがたい思いだった。 
 さらに、この見目麗しい貴人は内裏と権力を二分する雲上人だ。逆らえるはずもない。むろん客の素性を知ったとしても、知らぬふうを装うのが礼儀でもあったが。
 女将が戸惑いを見せたのは一瞬のこと。すぐにその表情をのみこんで営業用の笑顔を作り、慇懃に礼をする。
「……それは失礼いたしました。どうぞお通りくださいませ」
 店の内は、客とその連れの妓女たちの嬌声とで賑やかだった。その店の中を、案内の女将について春風は流れるような挙措で続いた。
「この回廊の奥のお部屋でございます。ただいまお伺いをたててまいりますので、こちらへ……」
 その手前の部屋へ招こうとする女将を、
「迷惑は、かけぬ」
 春風が短く告げて、制止する。
 微笑を浮かべる春風を、女将は陶然と見つめ、その不作法に顔を赤らめる。
「承知とは思いますが、今宵ここであったことは他言無用に」  
「分かっております」
 やさしげな笑みに縁取られた言葉に、女将は上気した顔をふせたまま、うなずいた。

 広い妓楼の奥まで、遠い波の響きのようなさざめきが届いていた。
 春風は控えの間の前を通りすぎ、最奥の扉を開く。なめらかな絨毯が足音をひそやかなものにする。
 燭の薄灯りの中に浮かぶ贅沢な調度は、ここの女将が最上の部屋と自負するにふさわしいものだ。部屋の中央には黒檀の座卓と椅子が配され、部屋の壁には異国風の壷や酒器、皿などを飾った棚がならんでいる。
 無感動にそれらを見やり、春風は意匠を凝らした突きあたりの扉の奥に足を踏みいれた。
 幾重にも紗をおろした窓前の小卓に置かれた香炉から、官能をくすぐるような香りが立ち昇っている。
 だが、普通の人間には感応できない濃密な異界の匂いを、春風は感じ取っていた。
 惰眠を貪る皇子の姿は認めたが、部屋にはひとりの気配しかない。
 春風は懐剣を取出し、白金鞘を抜きはらった。薄く研ぎ澄まされた刃が、今しも月光を吸ったかのごとく澄んだ輝きを放つ。
 滑稽なほど華美に装飾された牀(ねだい)から衾を引きはがす。寝乱れた敷布が、そこにいたはずのもうひとりの存在をかすかに残している。
 わずかにみじろいだものの、皇子に目覚める様子は見られない。
 冷たい刃で頬を撫であげられ、はじめて異変に気づいた皇子が叫ぼうと口を開いた瞬間、口腔に短刀の切っ先が滑り込む。
「人払いしてあるご様子。幸い声が外にもれる気遣いはないようですが、不用意に声をあげないほうがおん身のためです」
 艶冶に笑いかけて、春風が慇懃な言上をする。もし、彼の乳兄弟が聞いていたら苦笑し、皇子に一抹の哀れをよせたかもしれない。
 冷徹になるほど、春風の言葉は馬鹿丁寧になる。いっそ清冽ともいえる姿勢で断を下す。
 蒼白となった皇子が瞬きを繰り返して了解すると、切っ先は口腔から喉元へと移動する。
「私がお尋ねしたいことはお分りでしょう」
「……私はなにも知らぬ」
「樹音とご一緒でしたね」
 春風が穏やかな笑みの奥から刺すような視線を向ける。
 桂月宮の最高神官が追うものが自分ではないと思ったか、皇子はちらりと目をとなりに向けて少年の不在を確認した。 とたん、横柄な構えを取り戻す。
「そのあたりにおるはず。早く捕らえるがよい。私を誘い込んだのはあやつだ」
「誘い込まれて、私に刺客(しかく)まで差し向けられたのですか?」
 声を殺して、だがやさしく囁くように問いかける。
「ち、違う、私は知らぬ」
 皇子はいっそう蒼ざめて紙と変わらぬ白さとなった。
「樹音が……あやつが画策したことだ!」
「昴雪殿は金子(きんす)を用立てただけと言われますか」
「なにを証拠に」
「ずいぶんはりこんだでしょう。私にも物見(ものみ)の者がおりましてね。わざわざお声をかけていただいたそうですよ」
 ありていにいえば間諜である。
 互いが名も知らない。住居も素性も知らない。顔を見知っているのも、せいぜいひとりにつき数人だろう。これならば、たとえ中途で途切れる事態となっても、組織全体が崩壊することはない。なにをどう問われようと、最初から知らないものは知らないのだから答えようがないわけだ。
 それを考えて、春風はわざと緩やかな、一見不確実と思われる方法をとっている。不確実だが、驚くほど犀利で狡猾な手でもあった。
「あなたが頼りとした刺客は我々の監視下にあります。たいそう羽振りがよろしい。……その理由を聞きだすのはたやすいことだと思いませんか?」
 春風が懐剣をしまっても、皇子の恐怖は少しも薄れない。微笑みを浮かべて見下ろしてくる美しい面を正視する勇気もないままに、皇子は紫色に変色した唇を動かしかけ、強ばった顔を横に振った。
「桂月宮に対する敵対行為を見逃せるほど、私は心が広くありません」
「知らぬ。あ、あやつが私をたばかったのだ。最高神官を倒しその座に就けば、異界の力は私の思うがままと……。 そもそも、一国に二柱あるのが、不自然なのだ。私は二つの流れを、本流に――」
「それも樹音の入れ知恵ですか? それとも錦長者あたりでしょうか。やがて手中にする帝位はいらなかったのですか」
「今となっては、内裏の力なぞ飾りものに等しいではないか。興味も失せるわ」
「では……こちらにご署名を」
 春風が差し出した一枚の紙片は、帝位継承権を放棄する内容の文書がしたためられていた。ご丁寧にも携帯用の小筆まで手渡されて、皇子は血走った目で必死に言いつのった。
「わきまえられよ。おん身とて、そこまでの権限はないであろう。異界のものを京師に放ったことじたい、宮の重大な過失ではないか。私は被害者にすぎぬ。責務をないがしろにしたおん身こそ、責を負うべきではないか」
「なんのことか分かりかねます。少年が異界のものと認識しつつ連れ出し、あまつさえ、契りまで結ばれたのはあなたです」
 居直りにも似た必死の抗弁を軽く一蹴され、ようやく己れのしでかしたことの重大さに気がついたのだろう。一声唸り、皇子は頭をかかえて寝乱れた髪を掴みかきむしった。
 身も世もあらぬかっこうで嘆きはじめた皇子に、春風はかすかに苦い表情を作って嘆息する。
「御父君もなかなかの狸ですよ。ご自身の手をわずらわせず、面倒を押しつけてくださった。……これは先日、あなたがお届けくださった内裏からの親書ですが――」
 春風が淡々とそれを読み上げる。
 狂乱がおさまるにつれ皇子は茫然自失の態となっていく。
 内裏からの親書は、一言であらわせば皇子の行状に悩み、泣きついてきたものである。流麗に書き連ねてはあるが、桂月宮に身を寄せて世俗と断絶することで、皇子の頭を冷やし、己れを見つめ直す機会を与えたいという内容だ。
 そこには、出来そこないの無頼を宮に押しつけようという意図が見え隠れしている。
「後継は弟君に決まりましょう」
 春風が立てた筋書きは、内裏も納得しうる完璧なものだ。
 後継とするにはあまりにも不安がある皇子である。対外的な名分さえ立てば迷いなく廃嫡するだろう。
 反論する余地もなく、皇子は震える手で署名した。
「私を、どうするのだ……?」
 すがるような眼差しが、春風を追う。
「内裏のご意向のまま、宮にご滞在いただきます」
 慈悲深い言葉だった。だが、それを耳にした皇子は己れの皮膚を、何十、何百もの薄い刃物が切り裂いていったような激痛をおぼえた。
「喰われましたね」
 空気の色が、変わった。
 白い繊手がやんわりと喉に触れる。皇子の背を冷たいものが走った。
「樹音との契りはいかがでした? さぞ心地よいものでしたでしょう。あなたは生涯その呪縛からのがれられませんよ」
 双眸が深紅に煌めく。
 玲瓏な容貌が、どこといって造作が変わったわけでもないのに、彼の姿、輪郭、すべての線が研ぎ澄まされたように、明瞭になった。
「その口だけは閉じていただきましょう。宮のみならず、内裏においても、異界の存在は最高機密とご存じのはず。吹聴されては面倒ですのでね」
 そこにいるのは、もはやあの茫洋とあたたかい青年ではなく、風格をまとった最高神官でもなかった。
 慈悲も情けも持ちえない、すべての感情を消し去った優美で繊細な人形のように、どこか作り物めいた輪郭だった。
 皇子は死を覚悟した。
 察したように、
「殺しはしませんよ」
 穏やかな声が囁く。
 春風を核に、周囲がぼうと明るく見えるのは、皇子の気のせいではなかった。
 白い美貌が、内側から光を放っている。やわらかな光ではあったが、春風が人であるためには、絶望に近い光だ。
 だが皇子に理解できるはずもなく、ともにそなえもった清冽さは、不快ですらあった。

――少しずつ、身体からなにかが失われていく。 
 水が流れる感覚に似ていた。それとも傷口が開いたまま、際限なく血が流れだしている状態か。
 悪いことに、傷口がどうしてもみつからない。あるいは、ありとあらゆるところに疵が開いていく感覚。
 樹音との情交でえた快楽とは似て非なる、甘美な喪失感――。
 本能が恐怖におののく。
 だが、記憶はそこまでだった。
 音も光も、五感のすべてを失う瞬間。
 昴雪皇子は絶叫とともに、その記憶のなかに閉ざされた。


 june world  back  next

CAFE☆唯我独尊 http://meimu.sakura.ne.jp/