「まいったなぁ。また只働きかよ」 瀬野朋弘の唇から何度目かのため息が洩れた。 「いっそサラリーマンになっちゃおうかなぁ」 少なくとも毎月決まった給料が頂けるわけだし。 そしてまたため息。 お得意さんに吹っかけられる無理難題を、丸々二日と十三時間をほとんど不眠不休でクリアしてほっと息をついたのも、つかの間のこと。 「あれはもう一度練りなおすことにしたから」 寝不足で朦朧としている脳味噌がその意味を掴み損ねてボケッと眺めている朋弘に、担当殿は優しく追い打ちをかけて下さった。 「あれ? 瀬野ちゃんとこ、連絡したでしょう?」 「はぁ?」 「したはずです。しましたよ。言づてましたよ」 「言づて…って、僕は一人暮らしですけど」 担当があんぐり顎を落としたのは一瞬のことで。 「じぁ、瀬野ちゃんが自分の耳で聞いたはずでしょ」 聞いてないよ! 「寝呆けていたんじゃないの」 担当氏の立ち直りは素早かった。 朋弘は抗議する気力も失せてしまった。 そりゃ、そちらのミスだって認めたらあなたの成績に響くんでしょうけどね。 担当氏のように強気の厚顔でなければ勤まらないなら、サラリーマンというのも自分には無理かもしれない。 「はぁ〜」 ため息なぞついてもしょうがないんだけど。 覚悟はしていたものの、フリーの設計士なんて不安定極まりない。もっとも、好きでフリーになったわけでもないが。 それまで勤めていた設計事務所が、不景気のあおりを受けてリストラせざるを得ない状況になったのが半年前。温情家の社長(?)が、家族のいる者を路頭に迷わすことを避けるためのターゲットが『独身』の建築設計士だった。 『資格』があるぶん給料が高いし、場数を踏ませて育てていく余力が会社にない以上狙い目となるのは当然かもしれない。 かくして朋弘は(よくいえば)自由契約の身となった。 今でもその事務所から仕事は貰っているが、朋弘に回ってくるのは大抵至急であったり、ややっこしい仕事であったり、無茶を承知で吹っかけてくるんじゃないかと疑りたくなるような、ようするに忙しいときだけの猫の手なのだ。 そして不眠不休で、ぎちぎちに無理をして描いた図面も今日のような憂き目にあうことも、決して珍しくはなかったりする。 高層ビルの谷間に埋もれた形ばかりの公園の、ペンキがはげて煤けたベンチにゴロンと横になり、頭の下で手を組んだ。頭の上にはりだした銀杏の葉は、僅かに黄色く色付いているものもあるが、まだ緑濃く、しかし排気ガスに晒されているせいか、なんとなく冴えない色をしている。 「疲れた色だな、おい」 つい銀杏に話かける。 「公害に強いといったって、限度があるよな」 自分の姿を見ているようだ。 朋弘が単身東京に上京して七年になる。 すっかり水に馴染んだ、と云いたいところだが、酸欠でぱくぱくして溺れかけた金魚という気分だった。 「なんだかなぁ……」 ムカシハ ヨカッタ――もしかしたらあの頃が人生で一番輝いていた時期だったのかも……。 妙にジジむさい感慨を抱いたのは、少しばかり疲れているからだ。なんといっても充足感のない徹夜続きがこたえている。 「…あ……寝ちゃう、か…な」
風もなく、暖かな陽差しも銀杏の葉陰が顔の辺りだけを遮ってほどよい影を作る。
頭の後をすうぅと引っ張れる感覚――。
――お人好しの朋弘が東京で暮らせるのか? そう言った友人がいた。 ――それより、こんなに美味いモンを作れるんだ。俺の嫁さんになれよ。俺、料理の腕のいい嫁さん貰うのが夢なんだ。 楽しそうにからかわれた。
ドキッ! 「……なん、だ?」 変な夢を見たような気がする。いや……懐かしいというか。 ぽかっと開いた目の前はうっすらと煙っていて。 しばらくは自分のおかれた状況が掴めなくて、ぼやーっとしていた。 ちらちら動くものは銀杏の葉っぱで、その向こうは白っぽく明るくて、背中が痛くて、尻も痛い。 どうやら公園の周りに林立するビルに灯りが、微妙な重なりで空気を白く靄って見せるらしい。 ということは……。ちょっとうたた寝のつもりがしっかり熟睡してしまったのだと、ようやく状況を把握する。 黄昏てきた十一月の風は冷たく――すっかり骨まで冷えた身体。 「ヘックショッ」 風邪をひいた――。 くしゃみで反動をつけて起き上がった朋弘は、強ばった首筋をほぐすために首をぐるりと回してから、堅いベンチから腰を上げた。 少なくとも、夕方まで眠ってしまって風邪をひいたのは、自業自得でしかないのだが、ついぼやきが出てしまう。 「踏んだり蹴ったり…ってこういうのを言うんだろうなぁ」 オフィス街の薄暮の公園に寄り道するような物好きがいるはずもなく、よけいに冷ややかな空気を感じさせる。 ひどく惨めな情けない自分を引き摺って、朋弘はのろのろ歩きだした。 帰る場所は、待つ人もないアパートの一室でしかないのだけれど。 |