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金色の雨が降る


 悩める青年を乗せたセダンがやっと辿り着いたのは、黄色く紅葉する高原の駐車場だった。自然保護の目的でそこからは車は入れない。乗用車は何台か止まっているが、すでに高原に散っているのか人影はほとんどない。
「すごい……山全体が黄色だ」
 陽の光を反射して輝く紅葉と高く澄んだ青空。
 堆積する落葉と土の柔らかい感触をスニーカーの靴底に感じつつそぞろ歩きながら、お登りさんよろしくきょろきょろしている朋弘が可笑しいのか、尚人が小さく笑った。「ほとんど  落葉松   からまつ だからね」
 下草に蔓延る熊笹を縫うように整備されたハイキング・コースは所々に道標が立っている。
 ほんのときおり行き交う人と互いに道を譲り合うくらいで、土を踏みしめる自分と相手の足音だけの不思議な静寂――心に染み入るような。
 「半日コースと一日コース、どっちに行く?」
 前を行く尚人が唐突に足を止めた。そこで立て札が二方向を示しているのだ。
 半日コースの方が人気があるらしく、道幅が少し広げてある。一方は獣道に毛の生えた程度の道筋だ。
 それでも案内板に印してあるのだから心配するまでもないだろう。
「せっかくだから人が少ない方がいいな」
 いましばらくは静寂に身を浸していたいから。
 尚人が肩越しに振り向く。一呼吸おいて笑くぼを作った。
「顔色が良くなった」
「え……?」
 陽光に溶けた落葉松の黄色が明るい影を落とし、朋弘の柔らかい顔立ちに暖かい色を刷いている。沈んでいた顔色はどことなく浮き立つ心を映して、確かに明るさを増している。
「さっきまで萎れた菜っ葉みたいだったぜ。俺、自信なくすなー。朋弘は俺より植物と付き合っているほうが元気になるのな……ま、お前らしいといえばお前らしいけど」
 どこか憮然とした口調。
 一日コース獣道へ歩みを進める尚人の表情は見えない。が、わずかに震える広い肩が堪える笑いを示している。
「どうせ俺は成長してないよっ」
 尚人が吹き出した。
「変わってないから安心したんだ。朋弘は朋弘のままでさ」
 なおも喉の奥で笑い続ける後ろ姿を、朋弘は複雑な気持ちで眺めるのだった。


「道がない」
 唐突に、尚人が足を止めた。
「崩れたのかな」
 目の前に唐突に現われた剥出しの黒土の山。
「そういえばこの間大雨があったよね。……引き返す?」
 とは言ってもすでに分岐点から二時間以上歩いているのが、ちょっと悔しい。
 それは尚人も同じ思いだったらしく、
「この黒土の山を越えればまた道があるだろ」
 そう言って前進したのだが――。
 道は現われるどころか人跡未踏のどこき欝蒼と繁る熊笹と落葉松林がどこまでも続いている。
 二人は、しばし声もなく立ちつくす。
 ときおり高く鳴く鳥の声と、葉群を渡る風の音だけがあたりを浸す。陽が陰ったせいか、陰欝な光景だった。
 やや荒い息を整えるくらいの間ののち、
「もしかして…迷ったかな」
 ぼそりと尚人が呟いた。
 腕時計を見る。引き返さざるを得ないことは一目瞭然だ。
 運動不足の朋弘の足が溜め息をつくように崩れ、長身の隣に座り込んだ。
 これからの虚しい労力を思うと目眩がする。うっすら浮かんだ汗に体温を奪われ、背中に冷たい空気を感じた。
 ハイキングコースで迷子になるなんて間抜けとしか言いようがないだろう。
「昼飯にしよう」
「ん?」 
「何はともあれ腹拵え」
 尚人が能天気に輝く笑顔で見下ろしていた。
 そりゃね。そんなところで遭難することはないだろうけど。
 密生する熊笹の群生を掻き分け、落葉松の根元に弁当を広げるスペースを見つけて、ようやく二人は足を投げ出したのだった。

 尚人は健啖ぶりを発揮し、いま自分たちが置かれている状況そっちのけで、それぞれに満腹の幸せに浸るのに三十分もかからなかった。
「おい、膝貸せ」と、いきなり尚人が懐いてくる。返答する間もあらばこそ、朋弘の太腿にその重みを預けられた。
「気に病むなよ。ようするに夜までに車まで戻ればいいんだ…だろ?」
 やがて、ジーンズごしに健やかな呼吸が感じられる。
「おい…寝ちゃったのかよ」
 腿の上の軽く目を閉じた横顔に、朋弘は深く嘆息する。
 何気なく、本当に無意識に、尚人の目蓋に落ちた前髪を掻き揚げようとする自分の手に気づき、その手を握り締める。
 まずいよ……尚人。これって、すごくまずい。





 しかし――山の天気を、甘くみてはいけなかった。
 すい…と白い靄が流れたと思ったら、瞬く間に霧に閉じこめられた。
 辛うじて伸ばした手の先が見えるだけの乳白色の不気味な静寂。何かが息をこらしてこちらを窺っているような。
「まずいよ…尚人」
「……あぁ、まずいな」
「起きた? 霧に巻かれ――」
 覗き込んだ横顔の目は閉じられたままだった。
「まずいんだ」
 朋弘の足を枕にしたまま、尚人が繰り返した。
「七年間考えた」
「櫻沢?」
「朋弘がちゃんとずるい大人になっていることを、おれは期待していたんだろうなぁ。彼女とか作ってさ……そうすれば諦めがつく…そう思ったんだ」
 何を言ってるんだ?
「おれとしては一大決心だったんだぜ。それなのに、朋弘は全然変わってないのな」
「ちょっと…櫻沢……何が言いたいのか」
「解るだろ」
 すっと伸びた手が朋弘の首筋を捉える。
 そのまま圧力がかけられ、引き寄せられる。
「まずいよな」
 囁きが唇に寄せられた。
「でも…選んだ」
 朋弘の唇に残される乾いた感触。
「お前は……?」


 お前は?――
 間近に見る黒い虹彩が、眩しい。だから朋弘は目を閉じて、唇をあわせた。
 深く歯列を割って滑り込む、熱い舌。絡みあう。もどかしさに息が弾む。
 ぼんやり霞みがかった意識の片隅で、体が反転し、のしかかってくる重みを心地よく感じる。
 シャツのボタンが外された。忍び入る手が薄い胸を撫る感触に、なけなしの理性が目覚める。
「……ちょっ…おい」
 首筋に埋まる尚人の頭をどつく。
「だめ。おれ、キレた」
「こんなとこで欲情するなよぉ」
 うなじを舐められ、ぞくりと全身が震える。
「七年間で……理性なんか使い果した」
 手も唇も休むことなく、尚人が吐息のように囁いた。
「褒美をくれてもバチは当たらないだろ」





 濃密な霧が肌を滑っていく――。
 目を閉じていても、律動するしなやかな背中にしがみ付いていても、何かに呑み込まれてしまいそうな不安感が朋弘を襲う。
 あまり愛しさがつのると、人は喜びを通りこしてしまうのだろうか。
 この切なさは、悲しみとほとんど紙一重だ。
 しなる体と、肩にあてる歯。
 ゆっくりと、唇の描く通りに湿っていく肌。
 どことなく儀式めいたぎこちなさと、自分の名を呼ぶ声が、沈む静寂に染みていく。
 目を開くと、白色の覆いを切り裂くように幾筋かの陽光が零れ落ちていた。
 真っすぐ伸びた落葉松が、日差しを反射するその細かな黄色を二人の上に散らしていく。
 霞む視界に、切なげな指と、尚人の背中に回した自分の腕が映る。
 金色の雨が降る。


「おれが女の子だったら」
 声が微かに掠れている。
「櫻沢は確実に振られてるよ」
 朋弘は初めて人の言葉を話したような奇妙な感じがした。声をたくさん出したから。
 まだ、微熱が体に残っている。
 あまりに唐突だったのに、戸惑いはなかったから、自分はすでに選んでいたのだと思い知る。
 さっきまで朋弘の体のそこここでしなやかに動いていた指は、髪の一房に遊んでいる。
 大きく開いた足の間の熱い体を肘で支え、尚人が心配そうに覗き込む。
「おれ、乱暴だったか?」
「けだものだよ。いきなり…こんなとこで」
 遭難しかけた山の中で、真っ昼間に、落葉にまみれて。
 だいたい『褒美をくれ』なんてプロポーズがあるか?
「ごめん……シナリオはばっちり作ってあったのに、我慢できなかった」
 軽いキス。
「これじゃ思春期のガキと同じだ」
「……まんまだよ」
 あの頃と全然変わってないのは尚人の方だ。
 強引で自分勝手で――だが決断を下したことには、頑固に固執する。
 だから信じていいんだろう。
「イバラの道を選ばせちゃったな」
「うん?」
「好きとか嫌いとか、欲しいとか欲しくないとか……そんな生易しいものじゃない。ガキじゃない分な」
 おれ達が選んだことは――尚人の黒い瞳が語っている。
「だから…七年もかかったんだ」
 らしくない気弱な台詞なので、朋弘はせめて笑って言ってみた。
「あのさ……」
「あぁ」
「腰が、重いんだけど」
 しばし、まじっと見つめられ、ゆっくり体が離れていく。
「――おまえって、意外と冷静なのな」
「違うと思う。……まだ実感がないから」
 途端に、尚人が笑いだした。
「おれ達って、恥ずかしいほど純愛してたんだ」
 起こした朋弘の上体を抱き締め、ひっそりと囁く。
「愛してる……」
 金色の雨が降り積もる――切ないほど息をこらして。
 そして、ムードもへったくれもなく、クスンと鼻を鳴らして、朋弘は思いっきりくしゃみをした。


 その夜――紆余曲折の果てにようやく辿り着いた小さな旅館で、尚人は情けなく溜め息をつくことになる。
 二つ並んだ布団。二つ並んだ枕。嬉し恥ずかしのシチュエーション。
 朋弘はすでにその一つに横になっている。
 やっと手に入れた恋人は、はんなりと頬を染め、熱く潤んだ瞳を向けるのだ。
 鼻水を啜りながら。
 朋弘はしっかり風邪をぶり返し、高熱に唸っていた。

                     ――END
'95.11.11
ゲスト原稿に加筆'03.9,26



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