濃密な霧が肌を滑っていく――。 目を閉じていても、律動するしなやかな背中にしがみ付いていても、何かに呑み込まれてしまいそうな不安感が朋弘を襲う。 あまり愛しさがつのると、人は喜びを通りこしてしまうのだろうか。 この切なさは、悲しみとほとんど紙一重だ。 しなる体と、肩にあてる歯。 ゆっくりと、唇の描く通りに湿っていく肌。 どことなく儀式めいたぎこちなさと、自分の名を呼ぶ声が、沈む静寂に染みていく。 目を開くと、白色の覆いを切り裂くように幾筋かの陽光が零れ落ちていた。 真っすぐ伸びた落葉松が、日差しを反射するその細かな黄色を二人の上に散らしていく。 霞む視界に、切なげな指と、尚人の背中に回した自分の腕が映る。 金色の雨が降る。
「おれが女の子だったら」 声が微かに掠れている。 「櫻沢は確実に振られてるよ」 朋弘は初めて人の言葉を話したような奇妙な感じがした。声をたくさん出したから。 まだ、微熱が体に残っている。 あまりに唐突だったのに、戸惑いはなかったから、自分はすでに選んでいたのだと思い知る。 さっきまで朋弘の体のそこここでしなやかに動いていた指は、髪の一房に遊んでいる。 大きく開いた足の間の熱い体を肘で支え、尚人が心配そうに覗き込む。 「おれ、乱暴だったか?」 「けだものだよ。いきなり…こんなとこで」 遭難しかけた山の中で、真っ昼間に、落葉にまみれて。 だいたい『褒美をくれ』なんてプロポーズがあるか? 「ごめん……シナリオはばっちり作ってあったのに、我慢できなかった」 軽いキス。 「これじゃ思春期のガキと同じだ」 「……まんまだよ」 あの頃と全然変わってないのは尚人の方だ。 強引で自分勝手で――だが決断を下したことには、頑固に固執する。 だから信じていいんだろう。 「イバラの道を選ばせちゃったな」 「うん?」 「好きとか嫌いとか、欲しいとか欲しくないとか……そんな生易しいものじゃない。ガキじゃない分な」 おれ達が選んだことは――尚人の黒い瞳が語っている。 「だから…七年もかかったんだ」 らしくない気弱な台詞なので、朋弘はせめて笑って言ってみた。 「あのさ……」 「あぁ」 「腰が、重いんだけど」 しばし、まじっと見つめられ、ゆっくり体が離れていく。 「――おまえって、意外と冷静なのな」 「違うと思う。……まだ実感がないから」 途端に、尚人が笑いだした。 「おれ達って、恥ずかしいほど純愛してたんだ」 起こした朋弘の上体を抱き締め、ひっそりと囁く。 「愛してる……」 金色の雨が降り積もる――切ないほど息をこらして。 そして、ムードもへったくれもなく、クスンと鼻を鳴らして、朋弘は思いっきりくしゃみをした。
その夜――紆余曲折の果てにようやく辿り着いた小さな旅館で、尚人は情けなく溜め息をつくことになる。 二つ並んだ布団。二つ並んだ枕。嬉し恥ずかしのシチュエーション。 朋弘はすでにその一つに横になっている。 やっと手に入れた恋人は、はんなりと頬を染め、熱く潤んだ瞳を向けるのだ。 鼻水を啜りながら。
朋弘はしっかり風邪をぶり返し、高熱に唸っていた。
――END
'95.11.11
ゲスト原稿に加筆'03.9,26 |