聖務日課から解放され、牧師館の食堂(兼客間)のテーブルの上を見て、レスター・リンフォード牧師は思わず苦笑を洩らした。 ほうれん草のキッシュはいい。ベークドビーンズも冷込む初冬の季節にはぴったりのメニューだ。スパイシーなジンジャーブレッドにはやや悩むかもしれないが、賄いをしてくれているご婦人の料理の腕は信頼に値するものだから、おそらく今夜の客を考慮に入れた味になっているだろう。しかし……きららかなジャムでコーティングされた無花果のパイは、ちょっときついかもしれない――あのアップルパイ以来、甘味恐怖症に拍車がかかった感のあるクレイグにとっては……。 ミルドレッド夫人お手製なる焼き菓子の評判がいかに観光客に上々であっても、個人の嗜好とは別物なのだ。実は、甘い物が大好きでもある牧師にはちょっと嬉しかったりするのだが、これが原因で元々遠退きがちなクレイグの足がさらに遠退くことになったら……笑える。
案の定、テーブルについたクレイグ・ラッセルは、明らさまに嫌悪を示すほど礼儀知らずではなかったが、その眉間にはしみじみと困惑が滲んでいた。 ときおり、自分より八歳も年上のこの男は妙に子供っぽい情けない目をするのだ。無論、自身は気づいてはいないのだろうが。 「無理に勧めませんから安心してください」 思わず救いの手を伸ばす。男は安堵の嘆息をついて照れ臭そうにそっぽを向いた。 「――で、話っていうのは?」 「オムレツのお礼に、ご馳走する約束だったでしょう?」 「……それだけ?」 「誕生日くらい婚約者と過ごしたいと願っても、バチは当たらないと思いまして」 牧師は慎ましやかな微笑みを、唖然とするクレイグに向けた。 「誕生日……? あんたが?」 「わたしにも人並みに誕生日くらいあるんですけど」 軽く男を睨んで見せたが、艶やかな黒瞳は楽しげに煌めいている。 だがクレイグの思惟は混乱するのに忙しいようだった。どこかぼんやりと呟く。 「婚約者……」 「だってプロポーズして下さったでしょう?」 しれっと囁く牧師を前に、しばし絶句するクレイグであった。 「――この背徳者がっ。おふざけもいい加減にしないとほんっとうに地獄に落ちるぜ」 と吐き捨てる。 「誕生日だと知ってたら、牧師心得の本でもプレゼントしてやったのに」 こてこての嫌味にも、牧師はくすくす笑っている。 「……どうせ、エミグラントのお祭り好きが祝ってくれるんだろ」 「おや、妬いてくださるんですか?」 クレイグは眉間に指を当てた。 (怒るなよ、クレイグ。こいつのペースに乗らなきゃいいんだ。……よし)と、自分に言い聞かせ、 「いーや、とんでもない。町のアイドルに不埒な感情なんて、ひとっ欠けらも持ってないさ」 クレイグの白々しい眼差しも意に介さず、リンフォードはにっこり頷き、 「あなたもアイドル候補に指名されていますから、そのうち様々な招待状が届くと思いますよ。あなたのご推察どおり、お祝い事には目のない方々ですから」 しれっと答えてからクスクスと笑った。 「でも今日はどなたもお見えになりません」 なんとも妖しげな言い回しに思わずクレイグの腰が引けるが、牧師はあっさりと、 「この誕生日はわたしだけのものなんです……出生証明書は他人の物なので。わたしは誕生日と名前だけのカードを添えて捨てられていたんです。世の中巧くしたもので、その半年前に赤ん坊を亡くした女性が拾ってくれて、まぁちょうどいいと――」 「その女性は死亡届けを出していなかったわけか……」 「大した違いはありませんからね」 牧師は軽く肩を竦めた。 「でもわたし自身くらい覚えていてもいいでしょう?」 そういう問題じゃないだろう――男の表情がそう語っていたが、出した言葉は違っていた。 「なかなかドラマチックな人生だな」 ポーカーフェイスともいえる青年の、変わらぬ柔らかな笑みに隠された何か――寂しさや渇き、自分の根を持たぬ者の不安などもろもろの感情――に触れた思いがした。 「――では…祝福の口づけをいただけますか?」 テーブルの向こうから白皙の美貌がすっと間近に迫ってきた分、男は仰け反って距離をとる。 しかし次の瞬間、牧師の秀でた額を温かく掠めたものがあった。 ほんの僅かに目を見開き、見つめ合うこと数呼吸。 慌てて目を反らした男に、牧師は極上の微笑みを向けたのだった。
おしまい
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