愛のイカサマ
回廊の角をまがり、白や薄紅色の石楠花の花が群れ咲く植え込みを巡ったところで、里見の耳に穏やかな話し声が届いた。とたん、小姓の機嫌は最低の位置にまでさがってしまった。 庭の奥、高さのある
針槐
が白い花房を無数に枝から垂らしている。その下に建てられた四阿は、木の蔭になかば埋もれて、濃い緑に染まっているように見え、その中にあるふたつの人影をも淡く緑色に染めていた。
おもしろくない。
里見にとって春風は、唯一無二の
主人
であり、なにものにも侵されてはならぬ神官である。だから、主人と平気でタメ口をきくような無神経な男に、近づいてほしくない。 そもそも案内も請わず、勝手に屋敷に出入りされては、春風の側に仕える自分の立場はどうなるのだ。 乳兄弟の気やすさがあろうと、たとえ主人がそれを許しているとしても、だ。 実は里見がその男にちょっとばかり借りがあったとしても、その腕の温もりに傷ついた心身を癒されたことがあったとしても、それとこれとは断固として別問題である。 それなのに――。 文句のつけようもなく、一幅の画のような青年たちではないか。 梢をぬけた風がふわりと吹いて、春風の横顔で木漏れ陽がゆらめいた。 やわらかな微笑を漂わせている。 そんな春の陽光のような春風は、側近くに仕える里見でもめったに見たことがない。 卓にひじをつき、乳兄弟の話に耳を傾けて、幸福そうにさえ見えるのがまた稀有の情景に思えて、それも腹だたしい。 ゆっくりとその面が向けられる。 整いすぎた美貌は、色素の薄い榛色(はしばみいろ)の瞳とあいまって、感情を持たない人形のようである。それでいて人なつこいものを感じさせるのは、どこか茫洋とした雰囲気を全身に漂わせているからだ。 「いつまでそんなところに突っ立っているつもりだ。出歯亀と間違われるぞ」 うっとり見惚れていたいような白晢が、とんでもない言葉を吐き出す。 里見はわずかに絶句したのち、 「――そっ、そのような下賎な物言いはおやめくださいっ」 いつもの調子のままに声を荒げる。 「内庭とはいえ、どこに聞きとがめる者がいるかもしれません。 思いがけぬところからつまらぬ噂が広がるものです」 一瞬にして、たゆたっていたやわらかい空気が霧散してしまい、もしここに観客(?)がいたら、小姓を殴ってやりたい衝動に駆られたであろう。 春風のかたわらの長身の男が、あるかなしかの皮肉を唇の端に刻ませる。それがまた、里見に己れの未熟さを見せつけるようで、口惜しい。 「おくつろぎのところを失礼します」 両手を胸の前で組んで型通りの礼を執りながら、里見はあてつけがましく挨拶を述べた。 「かまわぬ。そなたがこちらに顔を出すからには、所用があってのことと承知しているさ」 春風の口調は、どこかあたたかさとおかしみがふくまれていた。 「もっともそなたの探し人は、この山吹のほうか」 里見は初めて存在に気づいたような表情で、かたわらの男に大袈裟な礼をして見せた。 「真岳殿が中門廊(玄関)にお見えでございます」 「真岳が?」 「これはめずらしいこともあるものだな」 色々な意味で
性質
の悪い
狩人
の名に、
上使
である山吹の顔が厳しく引き締まるが、春風はのんびりと笑う。 「いえ、お訪ねになったわけではありません。さきほど私が偶然お見かけしただけです。ご用かと思い、近づこうとしたらふいと顔を背けられてしまって。……あの、なにか様子が……尋常ではないような……」 「そうか……。やつの妹御の命日だ」 山吹は大きく息を吐き、乳兄弟に囁く。 「ということは、また来るな」 呑気に呟く春風の、なかば呆れたようなゆがんだ笑いに山吹が気づく。 「様子を見てくる。おまえは中に入れ」 主人の腕を取ってうながすという山吹の無礼に、訳の分からぬままに黙って控えていた里見が、 「どうせ奥までは入れませんでしょう?」 苛立たしげに口をはさんだ。 「おまえ、去年の今頃はまだ側仕えではなかったな」 山吹がぼそりと言ったが、無論答えになっていない。 「どういう――」 「おまえの主人があっちにもこっちにも吹っかけてきた喧嘩のツケさ」 「人聞きの悪いことを。政治的駆け引きではないか」 明らかに面白がっている無邪気な表情に、山吹はため息をこぼす。 「気にするな、年中行事の一つにすぎぬ」 美貌の最高神官は艶やかな笑みを浮かべると、率先して歩き始める。 庭の奥から出て回廊にさしかかったときだった。 きらり、と鋭利な光が走った。 とっさに山吹が春風の身体におおい被さり、地面に倒れこむ。 一刹那、鈍いが、胸の底まで落ち込んでくるような重い音がズンと響いた。 一瞬動きを止めた里見は、次の瞬間、弾かれたような俊敏さで、光を飛ばした元へ走っていった。 「大丈夫か?」 下に敷いた身体に山吹が問うと、命を狙われた要人は呑気にも屈託のない笑い声を上げる。 「真岳だろう。相変わらず義理堅いやつだ」 「そういう口がきけるなら心配ないな」 ほっと息をもらしながら山吹は立ち上がる。 一尺ぐらいの針が、背後の樹に突き刺さっていた。 小指より少し細いほどの金属の棒の、その両端を尖らせたものである。 「里見! 放っておけ」 格闘を続ける里見――ほとんど真岳に軽くいなされていた――が、山吹の言葉に力を緩めたそのとき、狙い定めた真岳の重い拳が顎に命中した。 「なぜです!!」 倒れこんだまま上体を起こし、顎をさすりながら、里見が山吹にくってかかる。その隙に真岳はさっさと行方をくらました。 「だから、年中行事の一つだとおまえの主人が言っただろう」 里見を助け起こそうと腕を差し伸べた山吹も、そうは告げたものの、こちらも面白くないのか憮然としている。 その背中にべったり付いた土汚れを、流れるような仕草で払ってやりながら、 「やつの楽しみだからな」 春風は楽しげに笑った。 「でもお命を狙うなんて、尋常ではございませんっ。 そんな者をなぜお庇いになるんです?!」 「真岳は私を殺さぬよ。少なくともまだしばらくはね」 真剣に言い募っても、最初から聞くつもりもない春風には、馬耳東風、柳に風。 真摯だからこそ里見に一抹の憐れを感じるのは、山吹が乳兄弟の性格をよーく把握しているからにほかならない。 「その根拠のない自信はどこからくる?」 尋ねた瞬間に、山吹は後悔した。 交錯した美しい榛色の眼が、悪戯っぽい光を宿している。 「私を殺すのが、やつの生き甲斐だから」 とんでもない根拠に、里見は目をむいて、その顔貌を凝視する。 「誰でも楽しみは先にのばしたいものさ。違うか?」 「……聞いた俺が馬鹿だった……」 天を仰いで息を吐く山吹を横目に、春風は涼しい顔で、優婉たる微笑を淡く紅を引いたような唇にのせた。 「だから心配しなくてよい」 「……だれがしますものか」 敬愛する主人の一面に回復不能なほど打ちのめされた気分で、里見は小さく呟いた。 そこはかとなく忍び入る疲労感を意識したのは、里見だけではないらしい。山吹の精悍な横顔によぎったものは、清濁あわせて呑み込むを是とした諦観だろうか。 「里見も言うようになったではないか」 悠長な高笑いが、蒼穹に響いた。
――了
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